2013年5月30日木曜日

続 ジャン・バルネ博士のこと①

ジャン・バルネ博士は、1920年に生まれ、95年に他界した。

陸軍幼年学校から陸軍の衛生学校、リヨン大学医学部で医学を修め、45年に医学博士の学位を取得した。博士は42年の対独抗戦中から数少ないフランス兵の一員として、いわば、ゲリラの衛生兵として活動を続けた。
この第二次大戦中からジャン・バルネ(まだ博士号を取得していなかった)がアロマテラピーを実践していたかのような嘘八百を言いふらすバカの言葉を信じてはいけない。当時はゲリラなどというスペイン系の言葉は使われず、パルティザン(男性の場合)、パルティザーヌ(女性の場合)と言っていた。

フランスは、第二次大戦後、戦勝国の仲間入りをし(サルトルはこれを言おうようもなき「奇妙な勝利」と感じた)国家として日本軍国主義、ドイツナチズム、イタリアファシズムの打倒に何一つ貢献もしなかったにもかかわらず、枢軸側のような国が二度と出ぬように国連が組織され、枢軸側を倒すのに屍山血河の貢献をした末、ソ米英中各国が特別に拒否権を持つ常任理事国として特別な地位についた。当然である。ここに何のかんばせあってフランスがもぐりこんでいき、大きなつらをしているのか。しかも米露なみに拒否権まで手にして。
抵抗運動を必死で続けたフランス共産党員たち(ドイツ兵は捕らえた人間が共産党員とわかると即座に射殺した。その人数は7万にも及んだ)、各国の連合軍に加わって戦ったフランス兵たち、マキ団そのほかのレジスタンス運動があったからこそ、フランスは一応の面目が保てたのだ。

軍人のくせにこそこそ英国に亡命したシャルル・ド・ゴールなど、ペタン同様に戦犯に等しい存在だ。
バルネ博士は、それをどう考えただろうか。

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