2013年9月24日火曜日

「バレエ・リュス」とアロマテラピー

以上、いろいろな観点から、バレエ・リュスについてのべてきたが、これは、当時のほとんどのヨーロッパの芸術家たちが「芸術のめざすのは、人間の感覚を陶酔させることだ」と信じて、さまざまな作品をものしてきたこと、そして、その一つの象徴的なかたちが、絵画・文学、そしてむろんのこと、その結果、舞踊というものが、その時代思潮をあらゆる方面に拡大延長していった事実を史実に照らして確認したかったからである。

その作品にさまざまな形式で接する人を「陶酔させること」
--それが果たして芸術の真の存在理由であるかどうかは、まさに神のみぞ知るところだろうが、当時の人びとの多くは、ことに芸術家たちは固くそう信じた。

その象徴的なものが、「バレエ・リュス」だった。バレエ・リュスが提出した答えが、人類が古来、営々とつくりつづけてきた「芸術」ないし「芸術的」な作品のただ一つの存在理由に収斂するか否か私には疑問だが、19世紀末から20世紀初期にかけて、多くの芸術家が提出したこの答えにたいして、まだ私たちが明確な一定の反応なり態度なりを示せずにいるということは確かであろう。

さて、第一次大戦後、フランスの領土になったアルザスに移住した、マルグリット・モーリー、本名マルガレーテ・ケーニヒは、やはり外科医の補助をする看護師のしごとをここでつづけていた(アルザスはフランス領といっても、住民はドイツ語〔厳密にはそのアルザス方言だが〕を話していたので住みやすかったとも考えられる。この地方の住民がまるでピュアなフランス語を話していたかのように書いた、フランスの三文右翼作家ドーデの『最後の授業』は、ウソの固まりだ)。

また、よくマルグリット・モーリーは「生化学者」などといわれるが、少なくとも、今日biochemistry(生化学)というタームが意味するものは、彼女が「研究」していたとされるものとは大幅に異なることも知っておいて欲しい。

フランスで、ホメオパシー医のモーリーと知り合った彼女は、モーリーと再婚し、以後自分の名前もフランス風にMarguerite Maury (マルグリット・モーリー)と変え、それからは、ずっとこの名で通した。

ホメオパシー医の夫のモーリーは、中国やインドやチベットの宗教・哲学などにかなり詳しかったとみえ(正確だったかどうかは別問題だ)、マルグリットは夫からその方面の知識を教わった。

また、マルグリットは、はやくも、1835年にフランスで出版された"Les Grandes Possibilités par les Matières Odoriférantes " (芳香物質の大きな可能性)という本を入手し、これをよく読んだ。この本は、フランスのシャバーヌ博士が著したもので、同書は1937年にルネ=モーリス・ガットフォセの出した"Aromathérapie"とならんで、彼女の座右の書となった。また、マルグリットは、神経系に及ぼす精油類の力の研究を行い、これも彼女の「アロマテラピー」理論の基礎となった。
 
マルグリットも夫のモーリーも 、文学・美術(マルグリットの場合は自殺した父からの影響もあったものと思う)・音楽など、芸術一般にともども深い興味を寄せていた。この二人が、アンナ・パヴロワがウィーンで、ベルリンで、ミラノで、パリで時代を画するバレエを発表したことを、またディアギレフの「バレエ・リュス」のエポックメーキングな成果のことをさまざまに語り尽くしことは想像に難くない。

ここに、私はバレエと、総じて芸術とアロマテラピーとの幸福な結婚を見いだすのである。

 
そうしたことが、一体となって、マルグリットは人間の嗅覚・触覚などを、芸術と同様に陶酔させようという、ルネ=モーリス・ガットフォセの考え方とはかなり異なったアプローチで人を美しくし、かつ健やかにすることをめざした独自のアロマテラピーを構築した。精神=神経=心理=免疫といった人体の各機能の不可分の関係に、彼女は直観的に気づいていたのであろう。

まだ、当時の医学界は、そこまでの知識を持っていなかったからだ。

マルグリットは女性として、コスメトロジー(美容術・化粧品学)にも強い関心を寄せ、国際エステティック協会(CIDESCO)に関係し、その会長(現在はこう呼ばないそうだが)に2度も就任した。そして、CIDESCO賞をそのコスメトロジーへの貢献を賛えるということで、これまた2度も受賞した。このことについて、いささかお手盛りの感があると本に書いたら、まるで私がイヤミを言っているかのような非難をした人がいた。私は19世紀フランスの詩人、シュリー・プリュドム[Sully Prudhomme]のことを思い起こしたのだ。プリュドムなどという詩人のことを知っている人間は、日本には仏文学の専門家以外はほとんどいないだろう。彼は第1回のノーベル文学賞受賞者だ。この私も本来はフランス文学専門だから、プリュドムの原詩も、その文章もいくつか読んでいる。しかし、本当に心を動かされる彼の詩句にも文章にも一度もであったことがない。
 
しかし、ロシアの文豪レフ・トルストイといえば、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』、さらには『イワンの馬鹿』などで、文学に親しんだ人なら知らぬものはない。彼の作品は、国境を越えて多くの人の魂をゆり動かし、日本では、白樺派まで結成させた。トルストイはノーベル文学賞を決定する際にはその選考委員に任命されていた。当然のことながら、彼はその受賞者に推挙されたが、トルストイはぴしゃりと受賞を謝絶した。その立場上、当然であったろうが、さる方面からシュリー・プリュドムという、フランス国外ではほとんど知られていないフランスの詩人に、どうあってもこの栄えあるノーベル文学賞第一号を与えようとする政治的圧力があったらしい。ま、こんなことはどうでもよいが、私たちはトルストイの作品に触れるたび、いつも深い感動に包まれずにはいない。
 
マルグリット・モーリーのことで、私にイチャモンをつけた女性[だろう]は、たぶんシュリー・プリュドムの作品はおろか、その名も知るまい。第一、その名前すら正確に発音できまい。
マルグリット・モーリーが受賞したとき、彼女は会長の地位を退いていたが、マルグリットは依然として、CIDESCO内で隠然たる勢力をふるっていた。
したがってCIDESCOが最優秀エステティシエンヌに賞を授与するとなれば、彼女に与えるしかなかったのだ。このことを、マルグリットの弟子だったダニエル・ライマンに確かめたところ、ダニエルは苦笑まじりに肩をすくめ、「仕方なかったんですよ(Que voulez-vous?)何しろ、技術面でも理論面でも彼女に比肩できる女性はいなかったのですから(Elle était sans égale)」と言っていた。 

だから、マルグリットの受賞には「お手盛りの感がある」と私は言ったのである。そのくらいのことは調べてから、人に文句をつけるものですよ、お嬢さん、いやおばさん。

マルグリット・モーリーは、フランスやスイスなどヨーロッパ各地にクリニックを開き、アロマテラピーによる美容法をクライアントたちに施術した。そして、そのかたわら、自分の生徒たちにエネルギッシュに(しかし、何か秘密の宗教でも伝授するように)、自分のアロマテラピーを教えた。
ここに、藤田博士は黒魔術の臭いをお嗅ぎになるのだろう。
 
私が、ロンドンで知り合っていらい友人となっているマルグリットの愛弟子、ダニエル・ライマンが彼女の死後、実質的にそのあとを継ぐことになったが、20歳代半ばの彼女にはクリニックの運営は大変な重荷だったとのことだ。
 
マルグリットの弟子として、その後の英国のアロマラピーの教師になったのは、上述のダニエル・ライマン、ミシュリーヌ・アルシエ、シャーリー・プライスらがいる。とくに、1968年にマルグリットが脳卒中で死去したとき、もっとも近くで彼女を看取ったダニエル・ライマンは、「私はマルグリットの心のこども(マルグリットにはこどもがいなかった)であり、生徒でした。彼女は私の人生のメントール(賢明で信頼のおける助言者)でした」と。繰り返し言っている。

クライアントを感覚を通して陶酔させ、エクスタシーに導くことを主眼としたマルグリット・モーリーのアロマテラピーは、芸術的アロマテラピーというのは言いすぎかも知れない。しかし、私はマルグリットとその夫とが創り出したアロマテラピーは、ある意味で「バレエ・リュス」がメタモルフォーズして生まれ変わったものの一つだと私は信じている。

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