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2015年5月23日土曜日

ジャン・バルネは、大戦中はもとより第1次インドシナ戦争中にもアロマテラピーを実践していなかった!

ポーランドの作家、シェンキエヴィチの小説”QUO VADIS”に登場する人物に、キロ・キロニデスなる毒舌家がいる。

キロニデスに言わせると、この世には、頭蓋骨の中に脳味噌を入れていて、物事をヒトとしてマトモに考察できる人間と、頭蓋骨に膀胱を鎮座させていて、外見こそ人間だが、ものごとをロクに考えることもできない「エセ人間」がいるらしい。

 この「膀胱人間」を、化学用語の芳香族をモジって「膀胱族」と、かりに呼ばせてもらおう。

アロマテラピーの中興の祖、ジャン・バルネは、1920年にフランスのフランシュ:コンテ地方(フランス東部に位置する、昔の州名)に生まれた。ラ・フレーシュ陸軍幼年学校を卒業したのち、陸軍衛生学校で医学の基礎を学んでいた。

 ジャン・バルネが20歳の時の1940年5月10日、ナチスドイツ軍はフランスの誇るマジノ線という現代版万里の長城みたいなチャナなしろものをアッという間もなく突破し、開戦からたったの1カ月すこしでフランスを手もなくねじ伏せ、フランスはあっけなく(だらしなく)、ナチスドイツに降伏した。その原因は多々あげられるが、時のフランス陸軍総司令官モーリス・ギュスターブ・ガムランが脳梅毒で思考力がゼロになっていたことが何よりも大きい(こんな男は「膀胱族」の最たるものだろう)。
 そしてまた、軍の先頭で将兵を指揮すべき立場にあったシャルル・ドゴールが戦場を放棄してはやばやと英国に逃亡してしまって、フランス軍をしっかり統率しうる人物が皆無だったことも、フランスの敗因だった。

 こうした状況下で、ナチスドイツ軍がかなり手を焼いたのが、フランス国内で、占領軍と、ナチスドイツの傀儡(かいらい)政権との威嚇に屈しないで対独闘争を展開していた対独抵抗勢力(レジスタンス派)であった。

学業半ばの21~22歳の学徒だったジャン・バルネ青年も、このレジスタンスに身を投じた。とはいっても、彼の年齢を考えてほしい。こんな若僧がメスを振るって負傷兵の本格的な手当てにあたることなどムリだ(注射はできたが)。ジャン・バルネ青年の任務は、もっぱらペニシリンなど最新の医薬品や消毒剤、包帯用品、注射器、メスなどを実際の負傷兵の応急装置を講じる先輩医師たちに、夜の闇にまぎれて届けることだった。
彼は書いている。

 「1945年2月、ブザンソンにおかれた412後送病院で外科業務に配属されていた私は、最も危険な場合を含めて、戦傷の治療にペニシリンが果たすめざましい効果のかずかずを学ぶことができた。

 ある晩のこと、コルマールでの戦闘のあと、数時間のうちに400名以上の負傷者を受け入れることになり、私はストランスブールに行って、私たちに必要なペニシリンの補充分をとってこなければならなくなった。1945年2月のブザンソン=ストランスブール間の往復の行程は、まさに大変な旅であった。雨氷、砲弾の跡、ふつうならとっくに引退しているようなジープのすり減ったショックアブソーバー、こういったもののすべてのせいで、しっかりした注意力が失われ、脊柱の頼りないバランスが手ひどく痛めつけられた。私は一晩中旅行をして、朝の5時ごろストラスブールのペニシリン保管所についた。

 日がのぼったとき、私はそれぞれ10万単位のペニシリンを50ボトル入れた箱を2箱、車に積みこむことができ、そのまま412病院にもどった。

 10万単位のペニシリン計100ボトル、すなわち1,000万単位のこの抗生物質ペニシリンで、当時は60本ほどの『脚』を助けることができ、(この頃は10万単位から20万単位で十分だった)、20体の『腹部』、あるいは同数の『胸部』を救うのに十分だったのである。」

 当時のジャン・バルネは正式な軍医ではなかった。軍医の助手であり、見習いであった。だから、彼が傷病兵に行っていたのは、あくまで、本物の軍医が執刀し、施術する前の予備的治療であった。つまり、負傷兵に術前措置としてペニシリンを3時間おきに25,000単位ずつ注射していた。これは、もとより先輩上司の軍医の指示に従ってのことだった。

こんな戦場において、どうしてジャン・バルネがアロマテラピーなどというものが行えるだろう。第2次大戦中からジャン・バルネ「博士」は、アロマテラピーを実践していた、などという膀胱族どもの記述を見ると、『ジャン・バルネ博士の植物:芳香療法』の復刊をぜひ実現させたいと思わずにはいられない。

 戦後、リヨン大学の医学部に入ったジャン・バルネは、ここでドクトラ(医学博士号)を取得し、正規の軍医となった。

 対独レジスタンス時代のジャン・バルネには、ペニシリンの副作用などに思いを致した形跡は、まったくと言ってよいほどない。考えてみれば当然である。致死的な細菌だらけの戦場、すさまじい速度でふりそそぐ銃弾、砲弾、それが爆発したあと、あたりの風景が一変する戦場、前を行く戦友の頭部が機関砲の一発で吹き飛び、頭を失った体が頸部から血を吹き上げながら5~6歩進んで、つまずいて倒れてそのままボロキレのように動かなくなる戦場。そんなところでの唯一の頼みの綱が抗生物質だったからだ。副作用?そんなのはぜいたく人間のタワゴトだと、戦場臨床医の誰もが思ったろう。

 1950年から52年にかけてジャン・バルネ軍医大尉がトンキン(現ハノイ)の第1前線外科医療班の外科医だったときと、そのあとサイゴン(現ホーチミン)の415後送病院に勤務していた時に、彼は時間をかけて、負傷兵の国籍別に、当時の主要な治療薬だったサルファ剤と抗生物質剤との(この時点ではペニシリン以外にも多くの抗生物質剤が開発され、米国からフランス側にどんどん提供されていた)有効性の度合いを比較する様々な研究を行った。そして、博士は「これらのサルファ剤や抗生物質剤などがヨーロッパ人よりもベトナム人、アフリカ人負傷者の方にはるかに著しい効果を上げるのを確かめることができた。これは、これらの国民の大部分がこうした薬剤で治療を受けた経験が全くないからである」と結論している。

 この第1次インドシナ戦争のフランス軍は、いわゆる外人部隊であり、旧ナチスドイツ兵、徴兵されたアルジェリア人、南ベトナム人などで構成されていたことは前述した。そのことを想起してほしい。

 ジャン・バルネ博士がこの第1次インドシナ戦争時に少しばかりアロマテラピーを実践したという(神話)があるが、博士自身は一度もそれについて具体的に触れた記述をしていない。だから博士がこの時期にアロマテラピーを実践したという実証はなにもないのだ。そして、このような伝説が生まれた背景には、ジャン・バルネ軍医はアロマテラピーを戦火の中で縦横に施術してほしいという一般のファンの願いのようなものがこうした形で結晶したのではないだろうか。

 抗生物質剤(ペニシリン・ストレプトマイシン・テラマイシン・オーレオマイシン・クロラムフェニコール・テトラサイクリンなど)にたいして、その安易な使用に警鐘を鳴らしはじめたのも、彼の軍籍離脱後であり、アロマテラピー(といっても、博士の説くアロマテラピーなるものとは、現代のアロマテラピーとは厳密に言って別物である。これについては、いずれはっきり述べるつもりだ)を研究し、抗生物質剤使用への一つの代案としてこれを世に問うたのも、すべて市井の一医師となってからである。

 それから、「膀胱族」のあいだで喧伝される「マルグリット・モーリーは、ルネ=モーリス・ガットフォセの弟子だった、マルグリット・モーリーはジャン・バルネ博士の弟子だった」というたぐいのホラ話は、もういいかげんにやめてもらいたい。そうしたヨタ話をあえてするなら、ハッキリした根拠を示して言うが良い。
でないと、日本の民度の低さを示すばかりだ。

2014年7月1日火曜日

インドシナ戦争時のジャン・バルネ博士

Dr Jean Valnet at Vinh-Yen.ベトナムのトンキン軍管区第1前進外科処置部隊主任として負傷兵の処置にあたる軍医隊長、ジャン・バルネ大尉(ヴィン=イェンの戦闘において)
photo : Ch.K.女史提供 
 
 
 
インドシナ戦争時のジャン・バルネ博士
 高山 林太郎
 
 1946年から54年にかけて、新たに建国したベトナム民主共和国が、インドシナの支配権の回復をもくろむフランスに対して行った独立戦争をインドシナ戦争という。
 米国からの膨大な援助資金と武器との支援をうけて、制空権を握ったにもかかわらず、54年5月ディエンビエンフーでの決戦で、フランス軍は大敗した。
 思えば、ナポレオンがロシアで大敗して以降のフランス軍は、ヘナヘナというイメージしかない。
 
 このフランス軍のほとんどは、いわゆる「外人部隊」(旧ナチスドイツ兵、アルジェリア兵、南ベトナムで徴兵した兵士など)からなっていた。旧ナチスドイツ兵は第二次大戦中、東部戦線でソ連軍に徹底的に粉砕され、祖国ドイツは米英空軍の猛爆で廃墟同然になり、働き口もなかったので、やむなく昨日まで自分たちが支配していたフランスの、その外人部隊に自分の身体と命とを売ったのだ。
 つい先日まで自分たちにペコペコしていたフランス人にアゴでこき使われるドイツ人たちは、なんの恨みもないベトナム人を相手に、地球の裏側で、ド・カストリなる焼酎みたいな名前のフランス軍司令官の命令下で戦わされた。戦意などわくわけがない。ドイツ人たちはヤケになってナチスの軍歌を高唱していた。体格も貧弱なベトナム兵の闘志には、最新式の米国製の航空機も大砲も歯が立たなかった。
 このベトナム兵たちの戦いを見たジャン・バルネが、自分自身パルチザン兵として活躍したおのれのかつての姿をそこに重ね合わせなかったはずはない。とはいえ、フランス軍の軍医大尉として、ジャン・バルネは負傷者たちの手当てに懸命にあたった。
 大国フランスは、弱小なベトナム民主共和国に敗北した。ド・カストリ司令官は、ベトナム軍の捕虜の身となった。帝国主義・植民地主義の時代は終わったのである(それにつづくベトナム戦での米国の悪あがきやアルジェリアの対仏独立戦争などはあったが)。
 
 このとき、ジャン・バルネは、オーストラリア・ニュージーランドから送られてきたティートリー油などの精油を実験的に「初めて」使用し、アロマテラピーを実践した。第二次大戦中から彼がアロマテラピーを行っていたように言う人間もいるが、みんな嘘八百だ。
 ジャン・バルネの心中を察するに、これ以降、ほとほと彼は戦争が嫌になったのだろう。政府はレジオン・ドヌール勲章を贈って彼をひきとめようとしたが、ジャン・バルネは軍籍を離れ、民間の病院医となった。彼は決してベトナム人を殺さなかった。第二次大戦中もパルチザンの衛生兵として、祖国のために尽力した。しかし、みずからの手でドイツ兵を殺傷したわけではない。このときは、友軍のため、同志のためにペニシリンを配布し、ドイツに降伏して、その傀儡になった時のフランスのヴィシー政権にさからって、傷ついた戦友たちの命を救ったのである。
 ハーバリストのモーリス・メッセゲは、南仏の一介の民間人にすぎなかったが、ナチスドイツの収容所に送られそうになったときに脱走し、パルチザンの一員となった。彼は自分の手に余るようなサイズの拳銃を与えられ、ドイツ兵を狙撃しようとしたが、ついにその引き金を引けなかったと告白している。
 
 医学により、民間の医術により、人を健康にしようとし、人間の命を救おうと心の底から思うものには、どんな理由があろうとも、人の命を奪うことなどできないのだ。
 この二人のことを考える私は、そう信じて疑わない。アロマテラピーを研究し、実践しているみなさんも、きっと同じ考えをお持ちのことと思う。 
 
なお、民間医となったジャン・バルネ博士は、現代薬学の花形とされた抗生物質剤の使用に疑問を持つようになり「よほど差し迫った状況でないかぎり、抗生物質剤を使わないように」と主張した。
博士は1995年に死去するまで、このことを強く訴え続けた。「植物=芳香療法」は博士にとって抗生物質療法に対する代案の一つだったのである。
母を抗生物質クロラムフェニコールの副作用で失った私の心に、博士のこの言葉は重く響いた。

そして、博士はアロマテラピーを復権させ、これを広めようと本を書いたり、民間の病院で密かに実践したりしたことも付け加えておきたい。
精神病院を含む各種の病院でこれを実践しながら、フランス伝統の植物療法を質的にブレイクスルーさせるものとして、つまりアトミックな植物療法としてのアロマテラピーの体系を構築していったのである。
博士が、雑誌記者のインタビューに答えて、ルネ=モーリス・ガットフォセのいう「アロマテラピー」からはその名前を除いては一切影響を受けていない、と言っているのはそのことを意味しているのだろう。
これが、バルネ博士をアロマテラピーの中興の祖と私が呼ぶゆえんである。

2014年5月28日水曜日

『ジャン・バルネ博士の植物=芳香療法』はどうして復刊されないできたのか

高山林太郎
 
 現代アロマテラピーの医学的・科学的な基盤を築いた偉人といえば、フランスのジャン・バルネ医学博士をまっさきにあげる人は、日本でもヨーロッパでもたくさんいるでしょう。
 
 博士の名著 ”AROMATHÉRAPIE - Traitement des maladies par les essences de plantes” 邦訳題名『ジャン・バルネ博士の植物=芳香療法』は、私が30年以上もむかし、苦心に苦心を重ねて翻訳した、私にとって記念碑的な書物です。しかし、アロマテラピーのアの字も見たことのない日本人にこの療法を初めて紹介するには、フランスで10回以上も版を重ねた一般人向けの本とはいえ、むずかしすぎました。
 
 そこで、いろいろな問題点はあったものの、英国人、ロバート・ティスランドの ”The Art of Aromatherapy” (邦訳題名『アロマテラピー―〈芳香療法〉の理論と実際』)を最初に訳出・刊行することで、いままで日本人のほとんどが知らなかったアロマテラピーという、芳香植物の精油を利用する新しい自然療法を知らせるよすがにしようと考えたのです。
 
 「生活が苦しかったから、ロバートの著書を訳したんだろう」などという、ゲスな人間の批判もインターネットで見ました。アホな人間は、自分の下劣な考えを、こともあろうにこの私も同じように抱くとしか思えないのでしょう。思えば、気の毒な人です。自分がバカだからといって、世の中の人間すべてが自分と同じレベルのバカだなどとしか考えられない人間は、ホモ・サピエンス(人間)の名に値しません。反論する気もおきません。私はイヌ・ネコなみの動物とけんかするほど、悪趣味ではありません。
 
 私は当時、フランスからハーブを輸入する会社の研究開発部長を勤めていて、それなりに高給を食(は)んでいました。このころの私は、フランス・英国そのほかのヨーロッパ諸国のハーブ類の薬効の研究に、日夜いそしんでいました。当時、ハーブというものに興味を寄せる女性たちが多くなりはじめていました。でも、当時、西洋の薬用植物の薬理的な効果については、私ほど知識を持っていた人間は、たぶんほかにあまりいなかったと思います。
 
 さて、ある日のこと、某出版社の社長が「アロマテラピー」という新たなヨーロッパ生まれの植物療法の一種を紹介したいのだが、翻訳して頂けまいか、といって十数冊の英仏の原書を私のもとにもってきて、相談に乗ってほしいと依頼しました。私は、びっくりしました。私自身、アロマテラピーを新しい植物療法として捉え、これに深い興味を寄せて、すでにジャン・バルネ博士の前述の書物を訳し、知り合いの医師たちに読んでもらい、感想を尋ねてまわっていたのですから。
 
 もし、このとき私がジャン・バルネ博士の本の訳稿を、この出版社社長に「これを刊行して下さい」と頼んでいたらどうだったでしょうか。たぶん、全国で100冊も売れなかったでしょう。そして、今日のようにイヌ・ネコなみの動物まで「アロマテラピー」などと口にする世の中になっていなかったにちがいありません。
 でも、このときは何をおいてもまず、「アロマテラピー(芳香療法)」ということばそのものを知る人間を、一人でも増やすことが、なんとしても必要でした。私のこのときの決断が正しかったのか否かは、歴史が決めてくれるでしょう。いまの私は「功罪相半ばする」と考えています。
 
 ロバート・ティスランドの本は、ジャン・バルネ博士の「科学的な精神を逸脱しない」著書をネタ本にして、英国の大衆に俗うけするように、ホメオパシー・バッチ療法・占星術などをそこにおもしろおかしくまぶし、古代や中近世などのヨーロッパの医療をめぐる歴史をいわば講談調にまくしたて、オカルト的に中国伝統医学までとりあげて人を煙に巻き、根拠も明らかにせず「精油のレシピ」集などを並べました。
 ロバート・ティスランドは、バルネ博士の英訳本(英国ではほとんど売れませんでした)をパクって、その科学性などすっかり無視したわけですが、そのかいあってか(?)、英国の低俗な雑誌の編集者たちがこの本をおもしろがり、このネタをうまく使って、自分たちの雑誌の読者の関心を呼んで雑誌の販売部数をぐんと増大させようと企て、競ってロバートのこの本を話題にとりあげ、aromatherapy(アロマセラピー)という新しい言葉を英国全土にはやらせました。
 
 ジャン・バルネ博士は何度か英国を訪れていますが、博士はロバートのこの本を見て、すぐにこれが自分の本を換骨奪胎(かんこつだったい)し、自分が提唱した科学的アロマテラピーをふみにじったものだと知って憤慨し、正しくアロマテラピーが伝わらなかったことを悲しみました。せっかく訪英したバルネ博士に、ロバートは全く会おうともしませんでした。
 ロバートがフランス語など話せも読めもしない無教養な人間だったこともあるでしょうが、やはり博士に会わせる顔がなく、博士と通訳を介しても内容のある話ひとつ交わせないヒッピー崩れの、およそ知性において欠けた男だったからです(金にあかせてブレーンやゴーストライターなどを何人か使って、もっともらしい本を出していたのだと、故・藤田忠男博士は言っていました)。
 
 しかし、ロバート・ティスランドの俗流書を先に出版したために、日本でも「アロマテラピー」、「アロマセラピー」ということばが流行しはじめ、私がその出版社から出したいろいろなアロマテラピー書がひろく売れはじめました。
 
 そして、ようやくジャン・バルネ博士の前述の本が出せるようになりました。日本の人びとも、ロバートの著書よりも程度の高いアロマテラピーの書物を求めるようになったからです。
 
 この本は、同社で3000部ほど出しました。まもなく売り切れました。当然、版を重ねるべきなのに、同社の編集長は、訳者として当然の権利として私が受けとった数冊の翻訳書まで返せと要求してきました。もちろん、私は断りました。
 
 すると、この出版社の編集長と社長とは、見本に残しておいたバルネ博士の著書をコピー機で何百部か何千部かわかりませんが、まるまる一冊分コピーして、この定価7500円の本をなんとワンセット一万円でどんどん注文者に売ったのです。どれほどもうけたのだろうか。これは当然帳簿上には記載できない数字です。脱税の罪も立派に成立しますね。でもウラ帳簿などは今ではとっくに処分してしまったはずです。
 
 これは、日本とフランスとの両方の著作権管理会社にたいするひどい契約違反ですし、日本語版の翻訳・著作権者である私にたいする手ひどい背信行為です(私は、80年代から90年代にかけて私の本でここの社長・社員を食わせていたのです)。編集長がノータリンだったので、コピーしてこの本をどんどん販売していることをうっかり口走ってしまって、私にことの次第がばれてしまいました。コピーじゃダメだ、本をくれという注文者がいたので、私に渡した本を返せなどと言ってきたわけです。ある人が言っていましたが、コピーしたこの博士の本に、無断転載複写禁止と印刷されていたらお笑いですね。
 
 これで、この出版社は大儲けしかたどうかわかりませんが、コピーを買った人間が日仏両方の仲介業者にこの事実を知らせ、結果として、ジャン・バルネ博士もこの同社の悪事を知ることになり、博士は激怒して、二度と日本人などに自分の著書を訳させるものか、と身近な人びとに言っていたそうです。
悪事千里を走るとは、まさにこのことでしょう。
 
 私の厳重な抗議など、まったく無視してコピー商売を続けたこんな会社の幹部たちは、出版人の風上にもおけないヤクザ・泥棒同然の人間でなくてなんでしょう。なるほど、この犯罪行為はもう時効です。いまさらなにをいっても、顔に小便をかけられたカエルのようにケロリとして、この悪党どもはしらじらしい態度をとることは容易に想像できます。
 でも、このブログをごらんになった方々は、日本のアロマテラピーを推進させてきたと称する出版社が、倫理とか道徳とかといったものをまるで忘れたどんなに汚ない会社かがよくおわかりかと思います
 
 この犯罪には、上述のように時効の壁があって、いまさらどうにもなりますまい。しかし、国際的な道義を踏みにじり、日本と日本人の顔とに泥を塗った同社のこの悪行は、決して決して忘れないで下さい。
 
 私が無念でならないのは、この私が、翻訳者であるこの私までが、この悪事に加担したと、私の尊敬してやまないジャン・バルネ博士に思われてしまったこと(訳者なのですから当然です)、そして博士に、私が同社に厳重に抗議して、この悪党どもが不当に儲けた不浄の金などビタ一文も手にしなかったと弁明する機会もないまま、あの世に行かれてしまったことに尽きます。
 
 
 しかし、パンドラの箱に希望は残りました。
 バルネ博士の家族関係はかなり複雑で、博士の死後数年して博士夫人も死去しましたが、その有形無形の遺産の相続問題が穏便に片付いたら、話はまた変ってくるでしょう。ジャン・バルネ博士のこの不朽の名著の復刊を願ってやまない方がたは、その日をぜひとも楽しみにお待ち下さい。 

2014年2月13日木曜日

髙山林太郎 緊急手記「ジャン・バルネ博士はロバート・ティスランドをどう見ていたか」

ジャン・バルネ博士は
  ロバート・ティスランドをどう見ていたか

 
髙山林太郎
 

 『アトミックな植物療法』としてのアロマテラピー

 
 ジャン・バルネ博士は、アロマテラピーを「アトミックな植物療法」と呼び、芳香植物のエッセンスを利用するという特殊な形態をとるものではあっても、これを植物療法のカテゴリーに入れて、その成分の作用機序を「あくまで科学的に」解明しようと努力した。
 しかし、それを狡猾にパクり、換骨奪胎(かんこつだったい)した英国のロバート・ティスランドは、バルネ博士の科学的精神を虐殺し、ホメオパシーだのバッチのフラワーレメディーだの星占いだのという、およそ科学性のカケラもないものにすりかえ、英米人の、また日本人のアロマテラピーに対する認識を強引におしゆがめてしまった。人びとのなかには、アロマテラピーをホメオパシー同様に「いかがわしいもの」とみるものが続出したのも当然だ。
 私は、これまでジャン・バルネ博士のロバート・ティスランドに対する思いをよく知らなかった。
 しかし、最近、晩年の博士のことをよく知っている人物からくわしい情報を得て、ただの少しばかり文才のあるチンピラヒッピーだとロバート・ティスランドのことを考えていた私は、自分の愚かさにあきれ果てている。
 
 

 両者を翻訳し、日本に広めた人間として


 ロバート・ティスランドは、こざかしい悪党だったのだ。おのれの金儲けのために、バルネ博士の科学的精神を裏切り、魂を悪魔に売ったのである。そして、英国のアロマテラピーの元祖づらをして、恬然(てんぜん)として恥を知らない下劣なさもしい男だった。
 
 そして、それを訳した私も、結果的にこの悪党の片棒をかつがされてしまった。二十九年前の、私がこの英国で歪曲された療法、あるいはそこに盛りこまれたホメオパシーそのほかの迷信性をよく知らない時点だったとはいえ、そんなことはいまさら何の弁解にもならない。私は自分に一切、免罪符などを与えるつもりはない。
 ジャン・バルネ博士は、自分が説きつづけた科学的アロマテラピーが、英国の教養もない迷信家どもに、金儲けに目がくらんだ連中に土足で踏みにじられ、引き裂かれるのを見て、どれほど悲しみ、心を傷つけられ、かつ怒っていたことか。
この両人の著書をそれぞれ英語・フランス語から訳した私には、誰よりも博士の悲しみと憤怒とが、心臓をえぐられるような痛みとともに、よくよくわかる。
 
 私は、フランスから泳いでも渡れる英国で訳出され刊行されたバルネ博士の原書がほとんど売れず、まったく人びとの話題にもならなかったことを、よく知っている。
 私は、ロバート・ティスランドの“The Art of Aromatherapy 『アロマテラピー:《芳香療法》の理論と実際』”を翻訳し、フレグランスジャーナル社から出す何年も前に、ジャン・バルネ博士の“AROMATHERAPIE : Traitement des maladies par les essences de plantes :ジャン・バルネ博士の植物芳香療法”を試訳していた。
 しかし、私がアロマテラピー書を出したフレグランスジャーナル社は、東販、日販(注:いずれも各出版社の出した本を一般の書店に卸す大手会社)といった取次店に口座をもたず、ダイレクトメールで新刊を人びとに紹介するしかない小出版社である。ここに、書店では売れない、また一般人にはおいそれと販売できないとわかっている、程度の高いバルネ博士の本を、慈善事業だと思って日本最初のアロマテラピー紹介書として刊行してほしいなどと、私にはどうしても同社の社長に頼むことはできなかった。
 そして、結果として、このホメオパシーだのバッチのフラワーエッセンスだの、はては占星術だのというものまでブチこんだ「英国式アロマテラピー」なるインチキだらけのアロマテラピーを日本中に蔓延させてしまい、各種のアロマテラピー協会などという金儲けばかりをめざしているとしか思えない諸団体を雨後のタケノコさながらに生えさせてしまった責任を、私がとらざるを得なくなったと考えている。
 

 もう一度認識していただきたいバルネ博士の植物芳香療法


 全国のみなさんから、こざかしい悪党、ロバート・ティスランドの「共犯者」として、私は弾劾され、罵倒されることを、ここに強く求める。そして、みなさんに深くお詫びするとともに、私は死ぬまでに、ジャン・バルネ博士の墓前にぬかずいて、心の底から許しを乞うつもりでいる。
 ろくに医学など知らぬルネ=モーリス・ガットフォセの着想した「アロマテラピー」を、懸命に医学としてのレールの上に、きちんとのせたジャン・バルネ博士の晩年の心情を察すると、私の胸は後悔の念で張り裂けんばかりに痛みに痛む。
 現代のアロマテラピーは、まさにこのジャン・バルネ博士からスタートした。ジャン・バルネ博士の著書『ジャン・バルネ博士の植物芳香療法』が絶版になって久しい今、このことを、ぜひ再認識して頂きたく、この一文を草した次第である。 

2013年6月19日水曜日

沖縄より~高山林太郎が語るアロマテラピーヒストリーPR


週刊ジャン・バルネ博士の芳香療法を行っております坂元健吾です。

先日、お知らせいたしました高山林太郎先生のポッドキャスト番組を
開始いたしました。

「高山林太郎が語るアロマテラピーヒストリー」です。
私が書いているブログにて、番組紹介をしております。
http://meetsnature.ti-da.net/e4913509.html

***

ぜひ聞いてください。(坂元さんより)

2013年6月4日火曜日

続 ジャン・バルネ博士のこと②

バルネ博士のもとに、ある精油(エッセンス)生産者が手紙を寄せてきた。
博士はそれを著書で紹介している。

***

「専門家たちは自分が勧めたり売ったりしているものの純粋さを知ろうと思ったことがあるのでしょうか。精油を何かで「割る」ことは頻繁に行われています。 

良質のタイムのエッセンスは150フランはするのに、40フランのタイムのエッセンスがあったり、210フランは下らぬはずのクローブエッセンスが半額ぐらいで売られているのが何より証拠です 《中略》組成について何もわからない『割』ってあるエッセンスを使うことで生じるリスクを犯す権利が、専門家にあるのか。精油を扱う業者は、以前からいろいろなまぜものをする傾向があります。

香水業者、石鹸メーカーなどは安価に、よい香りの製品を売ることを重視するからです。しかし、ことアロマテラピーに関しては、値ははっても、絶対に高品質の製品を求めなくてはいけません」

***

ジャン・バルネ博士は、その意見の正しさに心から賛辞を呈し、その手紙の発信人に「私が心配していることも、まさに同じです」と返信した。

いま世界で生産されている精油(エッセンス)の9割以上は香水用、香料用だ。
アロマテラピー用に、注意深く安全につくられている精油は5~10%たらずなのが実情である。

精油がセラピストに、またそのトリートメントをうける人々にどんな影響を及ぼすか、もう一度、みなさんに考えていただきたい。

そしてことに、「アロマテラピー用」精油を販売する業者のかたがたの良心に、それをぜひ訴えたい。

2013年5月30日木曜日

続 ジャン・バルネ博士のこと①

ジャン・バルネ博士は、1920年に生まれ、95年に他界した。

陸軍幼年学校から陸軍の衛生学校、リヨン大学医学部で医学を修め、45年に医学博士の学位を取得した。博士は42年の対独抗戦中から数少ないフランス兵の一員として、いわば、ゲリラの衛生兵として活動を続けた。
この第二次大戦中からジャン・バルネ(まだ博士号を取得していなかった)がアロマテラピーを実践していたかのような嘘八百を言いふらすバカの言葉を信じてはいけない。当時はゲリラなどというスペイン系の言葉は使われず、パルティザン(男性の場合)、パルティザーヌ(女性の場合)と言っていた。

フランスは、第二次大戦後、戦勝国の仲間入りをし(サルトルはこれを言おうようもなき「奇妙な勝利」と感じた)国家として日本軍国主義、ドイツナチズム、イタリアファシズムの打倒に何一つ貢献もしなかったにもかかわらず、枢軸側のような国が二度と出ぬように国連が組織され、枢軸側を倒すのに屍山血河の貢献をした末、ソ米英中各国が特別に拒否権を持つ常任理事国として特別な地位についた。当然である。ここに何のかんばせあってフランスがもぐりこんでいき、大きなつらをしているのか。しかも米露なみに拒否権まで手にして。
抵抗運動を必死で続けたフランス共産党員たち(ドイツ兵は捕らえた人間が共産党員とわかると即座に射殺した。その人数は7万にも及んだ)、各国の連合軍に加わって戦ったフランス兵たち、マキ団そのほかのレジスタンス運動があったからこそ、フランスは一応の面目が保てたのだ。

軍人のくせにこそこそ英国に亡命したシャルル・ド・ゴールなど、ペタン同様に戦犯に等しい存在だ。
バルネ博士は、それをどう考えただろうか。

2013年5月29日水曜日

ジャン・バルネ博士のこと

知る人は少ないけれど、ジャン・バルネ博士のアロマテラピーの特徴は、それをパクッた英国のロバート・ティスランドなどのそれと違い、このテラピーを「アトミックな植物療法」と呼び、植物療法の一つと完全に割り切っている点。なにか特別な「魔術的」空気を使う英国アロマテラピーとは、本質的に異なる「科学を逸脱しない」療法であることが、その名著『バルネ博士の植物芳香療法』を読めばすぐわかる。
つまり、博士にあっては植物療法=薬草療法+アロマテラピー(アトミックな植物療法)ということ。現代のアロマテラピーの出発点は、1937年のガットフォセの本というより、64年に初版が刊行されたバルネ博士のこの書物だ。これに注目していたらアロマテラピーと植物療法とは二にして一であることがわかっていたはずで、この原点に今こそ博士とともに帰るべきなのだ!(り)