2015年1月6日火曜日
〔コラム〕CNV (Contingent Negative Variation - 随伴性陰性変動) について ー 鳥居鎮夫先生の思い出
2014年11月13日木曜日
〔コラム〕ペットへのアロマテラピーについて一言
2014年7月1日火曜日
インドシナ戦争時のジャン・バルネ博士
2014年6月10日火曜日
〔コラム〕アロマテラピーのためのフランス語講座のおすすめ
2014年5月28日水曜日
『ジャン・バルネ博士の植物=芳香療法』はどうして復刊されないできたのか
2014年4月30日水曜日
出版関係の皆さまへ、高山林太郎からのお願い【『フランス・アロマテラピー大全』の復刊について】
ロジェ・ジョロア/編著
ダニエル・ペノエル医学博士/医学監修
ピエール・フランコム/科学監修
『フランス・アロマテラピー大全 上・中・下巻』(いずれも絶版)
(原題:l’ aromathérapie exactement)
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2014年4月23日水曜日
ジャスミン | アブソリュートを買うときには注意して!⑫
2014年4月2日水曜日
〔緊急手記〕藤田忠男博士を悼む
2014年3月13日木曜日
蜂窩織炎(ほうかしきえん)の思い出と「セルライト」とについて〔コラム〕
2014年2月13日木曜日
髙山林太郎 緊急手記「ジャン・バルネ博士はロバート・ティスランドをどう見ていたか」
ジャン・バルネ博士は
ロバート・ティスランドをどう見ていたか
『アトミックな植物療法』としてのアロマテラピー
両者を翻訳し、日本に広めた人間として
ロバート・ティスランドは、こざかしい悪党だったのだ。おのれの金儲けのために、バルネ博士の科学的精神を裏切り、魂を悪魔に売ったのである。そして、英国のアロマテラピーの元祖づらをして、恬然(てんぜん)として恥を知らない下劣なさもしい男だった。
もう一度認識していただきたいバルネ博士の植物芳香療法
全国のみなさんから、こざかしい悪党、ロバート・ティスランドの「共犯者」として、私は弾劾され、罵倒されることを、ここに強く求める。そして、みなさんに深くお詫びするとともに、私は死ぬまでに、ジャン・バルネ博士の墓前にぬかずいて、心の底から許しを乞うつもりでいる。
2013年10月29日火曜日
これまでの『R林太郎語録』をふり返って
私は、この自分の名をおこがましくもつけた「語録」を、香りについて、アロマテラピーについて、思いつくままのこと、思い出すままのことを、順不同に書きつらねてきた。アロマテラピーという歴史の浅い自然療法を、日本に最初に体系的に紹介したものとして、少しでも多くの方がたに、つれづれなるままに記した随想のかたちで真実を、アロマテラピーの真実を、 知っていただくことを願ったからである。
2013年の5月1日に、この私は『誰も言わなかったアロマテラピーの本質』という新しい本を出して、いまのアロマテラピーの、ことに日本で行われているアロマテラピーの、さまざまな問題点をとりあげて論じた。しかし、いろいろな方面からの悪らつな妨害によって、この本は幻となってしまった。
でも、アマゾンとか楽天とかで、この本の一部が売られると、あっという間に売り切れた。この新刊をお読み下さったアロマテラピーの権威である、藤田忠男博士は、私には身に余る賛辞をお寄せ下さった。そして、「高山氏のこの本は、高度な文化批評である」とまで言って下さった。これにより、この新刊にたいしてケチをつけたまことにIQのお低い方がた(誰かはほぼわかっている)の罵詈雑言(ばりぞうごん)は、すべてケシ飛んでしまった。藤田先生のお考えは以下の原文もあわせてお読み頂きたい。
〔高山林太郎氏の著作の高度な文化批評〕
http://ameblo.jp/forestwalking/entry-11814714388.html
この「語録」は、すでに2万人以上の人びとが読んで下さっている。藤田忠男博士は、「日本のアロマテラピー業界は死に体」とまで極言しておられる。博士におことばを返すようで申しわけないが、私はアロマテラピーは、確かに一時の勢いは落ちたかも知れないと思うけれども(事実、英国のアロマセラピー界の権威〔とは笑わせる〕、ロバート・ティスランドが日本にまで来て、泣き言をならべていた)、本当に正しく、科学的に、バッチのフラワーレメディーズだのホメオパシーだのといったインチキ自然療法と「アロマテラピー関係者」たちがキッパリ縁を絶って、少しずつでも、精油の作用機序を、その相乗作用を、クェンチング効果を明らかにしていき、かつ、英国人、フランス人、黒人などと、体質も皮膚の質も、そのほかの各種の点でも異なった部分が多々ある日本人の(厳密には同じ日本人といっても、古来からの青森人、アイヌ人、沖縄人などは、それぞれみんな体質などが異なる)ためのアロマテラピーを構築すれば、一時のお祭り騒ぎ的な、地に足がつかない、ミラージュ的、蜃気楼(しんきろう)的なアロマテラピーを、しっかりした根拠に基き、万人を納得させ得る新たなアロマテラピー(ネオアロマテラピーとでも命名しようか)に生まれ変らせることができる、と私は確信する。
この文を読んでおられる、だいたいあなたほどの怜悧(れいり)で、ことばとしてダブるけれども知性と理性とを兼ね備えたお方が、会員から毎年毎年、金をまきあげる悪知恵しかない、もっともらしい日本アロマ○○協会などに加わっているのはどうしてか。そんな「協会」は公共的法人のくせに、7億から9億の金を金庫に唸らせ、協会の幹部どもは、「バカ会員めらが」と、ハラの中でセセラ笑っている。
めざめて下さい、そこのあなた。あなたを、あなたの財布をいろいろなインチキアロマ協会が、インチキアロマスクールが、インチキアロマサロンがねらっている。オレオレ詐欺師どもよりタチが悪い奴らだ。あなたは認知症のご老体ではないはずだ。しかし、悪党は、さまざまな手を使って人の良い人間をダマして金をまきあげるスベを心得ている。
どうか、くどいようだが、前記の悪人たちの餌食にならないように、ごくふつうの常識を働かせ、その悪人どもの口車に乗せられないように努めることだ。ダマされた人間も、またべつの人間をダマして金をもうけるのが、このネズミ講的組織のもっともタチの悪いところだ。しかもウブな若い女性などに「私は世間に役立つことをしているのだ」と信じこませてしまうオウム的洗脳組織だということを、心にシッカリ刻みこんでほしい。それが、私の心からの願いである。
2013年10月17日木曜日
人間の体臭について(続き)
現在では、体臭イコール悪いものという観念が横行している。むかしの人間(原人・旧人類といわれるきわめて古い時代の人種)は、確かに体臭がきわめて強かったと思う。
集団生活をしているハチ・アリなどは、巣の見張り番のハチ・アリなどが、敵の接近や攻撃などを仲間に知らせるために、独特の体臭を放って、スピーディーに群れの全員にその危険を知らせる。
すると、巣を防衛し、敵を撃退する役目の昆虫は、さっとその態勢をととのえ、必要とあらば敵を積極的に攻撃する。繁殖期などには、さらに敏活な行動をとる。
いまから20万年から2万数千年の間に、世界の各地で暮らしていた人種の一つに、ネアンデルタール人(Homo neandelthalensis)という旧人がいる。むろん、火を使い、旧石器を用いて、それなりの文化を築いていた。 仲間が死ねば埋葬し、花をそこに供えたりもした。
ネアンデルタール人は、身長が165cmぐらいなので、その男性にワイシャツを着せ、ネクタイを締めさせ、スーツの上下を着用させ、靴をはかせて公園のベンチにでも座らせたら、そばを通る人は、「こりゃ何人だろう。毛色の変わった人だなあ」と思うだけで、とくに気にもとめないのではないかと考えられる。
しかし、ネアンデルタール人は、現代の人間、すなわちホモ・サピエンス(Homo sapiens)と大きくちがったところがあったらしい。それは、頭蓋骨(とうがいこつ)の研究から、彼らはどうもコトバをうまく話せなかったようなのだ。と、いうことは、当然、脳の言語を司る分野が未発達だというわけであり、コトバを使用してモノを考える私たち現代人と世界の捉え方が相当異なっていたと思われる。
ネアンダルタール人も、数十人ないし、数百人のグループをつくって、狩などをして生活していたらしい。群のリーダーは、気候の変化、季節の移り変わりなどに応じて、各地を転々として、食物を求めて歩いた。しかし、ネアンデルタール人は、ついに弓矢を発明できなかった。かりに、群の誰かがそれをふと思いついても、唸り声のような声音では、その知恵を仲間全体にうまく伝えて、狩猟文化を飛躍的に発展させることができなかったのではないだろうか。
ここに登場してきたのが新人、すなわち現代人のホモ・サピエンスの先祖ではないか。
彼らは幼稚ながらコトバをいろいろと用い、弓矢をたくみにあやつって、さまざまな動物を狩ることができた。ネアンデルタール人は、どうなったろうか。ホモ・サピエンスに平和裏に吸収されたと想定する学者もいる。そういう学者は、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとのへだたりはさして大きくないとして、ネアンデルタール人の学名を(Homo sapiens var.neandelthalensis)と書いたりする。var.は、ラテン語のワリエタリスの略記で、その変種ということである。あるいは、ホモ・サピエンスに暴力的に絶滅させられた可能性も否定できない。霊長類のなかで、もっとも凶暴なのは、現代人ホモ・サピエンスであることは、その後のホモ・サピエンスの歴史から如実に証明されているところだからだ。
ところで、ネアンデルタール人のリーダーがグループのメンバーをひきつれて、高い崖の上に立ったとする。と、リーダーは「これは危険だ! ストップ!」ということを群れの人間たちに伝えるのに、吠えるような声をあげるとともに、強い体臭を放ってみんなにその危険さを伝えたのではないだろうか。そうすれば、その緊急性をスピーディーに群れのメンバー一同に伝えることができたと思われる。
そういうことに役立ったにちがいないと考えられる体験を、私自身したことがある。フランス南部のオートプロヴァンスに行ったとき、フランスにまで延びているアルプスの山腹を車でえっちらおっちら登っていた時だ。多分、海抜800メートルくらいのところで車を降りて、新鮮な空気を吸い、ふと足元を見た。足がふらついた。
私はかなり高所恐怖症の気(け)がある。
足元に600mくらいの谷が口を開けている。いまにも吸い込まれそうだ。思わずめまいがした。そのとき、私は体臭がさっと変わるのを感じた。そして、睾丸がキーンと冷えた。そして、女性だったらこんなときどこが冷えるのだろうかとバカなことを連想した。
こんな場合に遭遇した旧人のリーダーは、体臭を強烈に発して、危険性を知らせたに違いないと考えたのは、そのときだった。ネアンダルタール人にとって、(あるいはそのほかの旧人にとって)、こんな瞬間の緊急性を知らせるアラームとして、におい、異臭はきわめて有効だったろう。
また、私は、東京の新宿駅に立ったとき、微かながら異様な焦げ臭さを嗅ぎつけて不安におそわれ、駅員にわけを尋ねたことがある。原因は、駅から1km近く離れたところで発生したボヤで、もう鎮火したとのことだった。森林や草原などの火災では猛獣でもひたすら逃げるしかない。私もこの瞬間、一種の先祖帰りをしたのだろう。
しかし、コンスタントに先祖帰りをしている人間もいる。あるとき電車に乗ったら、隣の席の長袖の女性が、強烈な体臭を出していた。私は、思わずその若い女性の顔を見つめてしまった。悪いことをした。知らぬふりをきめこんでいればよかったのに。女性は悲しそうな顔をして、席を立って電車を降りた。女性は私がその顔を見つめたことが原因で下車したのか、それともそこが目的の駅だったのか、いまだにわからない。でも、ただただ、後悔の念がいつまでも残ってしまった。
人間の体臭について
ジャン・バルネ博士は、著書にこう書いている。
「芳香浴というものを、当世風の補足的な発明のように考えるのはまちがっている。
事実、芳香浴はいつの時代にも人びとの人気を得てきたのである。
しかし、フランスでは衛生とおしゃれの基本的な観念の欠如から、そうしたことが行われず、不当に判断されてきた時代がいくつかあったことは確かである。
それは14世紀[ルネサンスの時代]、ついでアンリ四世[16~17世紀はじめ]の治世であった。ぞっとするような汚い『善良王(ボン・ロア)』のこの時代は、とくに垢(あか)とノミ・シラミの治世であった。人びとはボリボリ自分の体をかいて体をきれいにし、美女は墓場[フランスでは土葬である]のような悪臭をさせ、貴族たちは『腋の下を少しすえ臭くし、足をむっと臭くしていた』。
ルイ一四世の時代も同様だった(何という幻滅だろう!)」。
そういえば、ミラノ公国のスフォルツァ公に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチは、この宮廷で美女の絵を描いたりイベントで貴族たちを楽しませたりしていたが、彼は、主君スフォルツァ公に、「みんなが飼っている動物で、死ねば死ぬほど嬉しくなるものは、何でございましょう」というナゾをかけたりした。答えは「シラミ」である。ルネサンスのころのイタリアのいろいろな宮廷、宮殿などの貴紳、美姫たちもフランスと同様、垢だらけで、ノミ・シラミの跳梁(ちょうりょう)に身を委ねていたに相違ない。今日のように、人びとは、貴賎を問わず、沐浴、シャワーなどで体を洗うことがなく、むっとした体臭を発していた。
日本でも、光源氏も紫の上も(これはフィクション上の人物だが)アバタづらで、むっと体臭をあたりにふりまいていたかと考えると、ゲッソリするのと同じことだ。でも、今日の感覚でむかしの人を論じてはなるまい。
ただ、『竹取物語』のかぐや姫が、 テレビドラマの水戸黄門に登場する美しい女優のように入浴するシーンを披露するとなれば、ちょっと見てみたいという男性は少なくないだろう(私は別ですよ)。
しかし、あの本を何度読んだって、彼女が竹から出現して以降、月に帰るまで、一度も沐浴したという記述がない。さぞ、臭かったでござんしょう。
でも、江戸時代になると、日本人の多くはひんぱんに沐浴するようになる。考えてみれば、日本ではそのむかしでも温泉がたくさんあったのだから、これを利用した人びとはかなりいただろう。当時、世界一の人口を抱える都市だった江戸には銭湯がたくさんできて、江戸っ子は、乞食以外は毎日、沐浴をした。
電燈などおよそない、薄暗い浴場だったから、男女が混浴したころもあった。石けんがない時代で、人びとはぬか袋で体をこすって洗った。どの程度の洗浄効果があったのだろう。
江戸時代の日本人は、清潔好きだった。反面、人前で肌を見せるのは平気だった。東京・新宿に四谷見附(よつやみつけ)という、役人が常駐する番所があった(もちろん、見附は江戸四方にたくさんあったが)。この番所は、もとより将軍様のお膝元に怪しい人間が近寄らぬように当局者が目を光らせているところだが、男がすっぱだかでこの番所を通っても、その男が肩に一枚、手ぬぐいを載せているかぎり、役人は何もとがめずに、江戸の御府内に通した。いまでは、こうはいかないだろう。
私が中学生ごろまで、電車の座席で乳児に乳房をあらわにして乳を与える女性はザラにいたし、男もさっぱり目をくれなかった。暑い夏には、通行人など気にもせずに平気で女性もたらいで水浴びをしたし、それをとやかくいう人間など、誰ひとりいなかった。
私の小学校の頃の同級生など、六年生のとき、同じクラスの女の子の家に遊びに行き、同じ部屋で一緒に寝たそうだ。このことを、どちらの親も、何一つ問題視しなかったし、事実、何事もおきなかった。現在だったら、絶対に、親はこんなことは許さないだろう。
いまの時代は、インフラは整備され、水洗トイレはいきわたり、人びとの衛生観念も発達した。私がこどものころは、男も女も平気で立小便をした(若い娘はさすがにそんなことは人目につくところではしなかったが)。
しかし、私は思う。確かに環境はきれいになり、人びとの暮らしは「衛生的」になった。
でも私たちは、衛生的に進歩して本当にキレイになったのだろうか。人工的なにおい、香りで天然のものを隠し、私たちの本能を人為的に麻痺させてしまっている。これが、人間として、本当にあるべき姿なのだろうか、と。
また、欧米人のマネを一から十まですることが、すべて正しいのだろうか。
アロマテラピーは、人間の感覚(それも複数の)を陶酔させ、人間の心身を自然なかたちで健やかに導く方法である。だとしたら、日本人は、日本人向けのアロマテラピーを創造し、私たちの感覚にマッチした、そして私たちの心身の真のありようを考えるべきではないだろうか。
日本人はヨーロッパ人と同じ服装をすることはできる。でも私たちの長い歴史がつちかってきた精神と感覚まで欧風にする必要があるだろうか。また、できるだろうか。ましてや
肉体の中身まで、腸の長さまで100%ヨーロッパ人なみにすることなどできようはずもない。
このことをもう一度考えてみよう。
2013年10月8日火曜日
精油(エッセンス)の効果と作用④
たとえばラベンダー油には、癒傷作用がある。これは、ルネ=モーリス・ガットフォセが「アロマテラピー」に想到するよりも、ずっと前からラベンダー油を香料会社の工場に納入していたフランスの農民たちが発見していたことだ。
しかし、なぜ真正ラベンダー油が傷をなおす力を発揮するのかは、いまだに科学的に解明されていない。だが、このことをルネ=モーリス・ガットフォセが世にひろく知らせていらい、アロマテラピーを学ぶものは、イの一番にこの精油の鎮静作用とともに、これの癒傷作用を知ることになる。そして、その無数の例があげられている。
だのに、その作用機序はいまだにはっきりわかっていないのだ。ラベンダー油に含まれる各種成分とビタミンCとが相乗的に働くためではないかという仮説を提出している学者もいるが、これも確かなわけではない。日本の各種アロマ協会のいろいろな金儲け目的のテストにも、このことはその試験問題として出たためしは一度もない(これにまっこうから答えられる「先生」方は、おいでにならんでしょう。ふふふ)。
ガットフォセは、アロマテラピーでは、テルペン類を除去した精油を使うように勧めている。今日、英国などのいわゆる「ホリスティックアロマセラピー」の関係者が声高(こわだか)に叫んでいること、すなわち「脱テルペン精油は、天然自然から遠ざかった存在だ(だから、治癒力が乏しい)」という主張、あるいはジャン・バルネ博士の「トータルな精油を信頼しよう」という信念と、およそ正反対の考え方である。多くのアロマ関係者は、このことに触れたがらないが、私は敢えてこれに言及しておく。
ガットフォセは、精油はできるだけ精製した精油、いってみればホール(Whole)なもの、とはまるきり反対の精油を使わなければ、精油の効き目は期待できず、精油を用いた治験で多くの医師が失敗の苦汁を味わってきた理由はここにあるとガンコに言い張っている。このことを現代の私たちが完全に否定しきれるかどうかが問題だろう。
彼が医学的知識に暗かったせいだというだけでは、本当の反論にはならない。ルネ=モーリスの会社が製造していた精油が脱テルペンしたものだったことを、そう言って正当化しようとしたのだろうといっても想像の域をでない。きちんと医学的・化学的にじっくりと、それが正しいか否かを考察する必要があるだろう。
ルネ=モーリスの主張を肯定するにせよ、否定するにせよ、このことは重要な作業である。
ガットフォセはさらに、多くの脱テルペン精油(真正ラベンダー油を含めて)は、ベルガモット油にどんどん近い存在になるとも言っている。
だとすれば、現在、アロマテラピー関係者が、製造したり販売したりしている精油の多くは存在理由がなくなってしまうことになりはしまいか。ルネ=モーリスのこの考えは、果たして正しいだろうか。
ユーカリ油やカンファー油などのいくつかの精油は、呼吸器系に明瞭な効果をもたらすことは、すべてすでに科学的ないし医学的に説明がついている。
かんたんに言えば、その精油成分が呼気・吸気の通路を塞ぐ状態の余分な水を抑制し、気道を拡大させて局所的に効果をあげることで、呼吸をらくに行えるようにするからだ。
日本では、大正製薬という会社から『ヴィックスヴェポラッブ』という指定医薬部外品(塗布剤)が出ている。これは、ユーカリ油、カンファー油、l-メントール、 杉葉(さんよう)油などが配合されており、これを胸部、頸部、背中に大人の場合、1回につき6~10g(小児ならもっと少なめに)をすりこむと、体温で精油成分が蒸散して鼻腔・口腔から(精油の一部は経皮吸収もされるだろう)呼吸器に入って、かぜ・インフルエンザ・喘息などで気道がせばまって苦しい症状を大幅に緩和できる。
カンファー油のような精油はまた、リウマチ性の疾病や関節炎その他の炎症を生じた部分に局所的に適用する。10mlのホホバ油に精油を3~4滴まぜて皮膚にマッサージしながらすりこむと、炎症を鎮め、痛みを和らげることができる。これも、科学的に説明がつく。
2013年10月4日金曜日
精油(エッセンス)の効果と作用③
精油のこの効果はCNV(随伴性陰性変動)その他に示され、脳のある部分はリラックスし、ほかのところは刺激を受けて励起していることがわかる。
マッサージ自体、リラックス効果があることがよくわかっている。心身をリラックスさせる力をもつ精油をこれに組み合わせて用いると、十分な抗ストレス作用が期待できる。
これは、私自身、知り合いの女性セラピストにそのような精油を使って施術してもらったことがあるので、その経験から、よく納得できる。
ストレス(肉体的・精神的)は、いずれも身体のなかに蓄えられているエネルギーならびに中間代謝システムに、ホルモン(アドレナリン効果)および第二次メッセンジャー物質、そして同様の効果を示す各種効果を通じてショックとか恐怖心・闘争本能とかといったものをひきおこす。
この後者は、とくに心拍を亢進させ、体液の循環を促進し、さらにそれとともに襲ってくる恐れのあるものに即座に身体と精神との双方をさっとスタンバイさせる。そうした刺激が消失するとすぐに、体内のプロセスは正常な状態に復する。
しかし、そのようなストレスがずっとつづくと、身体はコンスタントに用心し警戒しつづけなければならない状態におかれることになる。すると、私たちの精神にはパニック発作、問題を直視せずに「ひきこもる」気持ち、うつ状態などが生じ、それと関連した肉体的症状(高血圧、喘息、乾癬、心悸亢進、神経の緊張、神経の極度の疲労、神経衰弱など)が発症するとともに、感染症などにたいして肉体が本来有している、抵抗力も大幅にダウンしてしまう。
したがって、ストレス要因を軽減ないし除去すれば、ストレスに関連しておこる疾患の、少なくとも一部はなおせるということになる。しかし、そうした精神の興奮を十分に鎮静させるには、適当な精油(たとえばラベンダー油など)のみの使用だけでなく、あわせてライフスタイルを変化させるとか、食生活を変えるとかいったほかのファクターも十分に考慮に入れることを忘れるべきではない。
精油類は、あるいはアロマテラピーは、決してそれのみで万能の力を発揮するものではないことを常に念頭において頂きたい。
2013年10月1日火曜日
精油(エッセンス)の効果と作用②
しかし、人間を対象として実験した場合、こうした効果をもつとされる精油類をキャリヤーオイルで適切に稀釈して胃腸の部分にマッサージした場合、これにより症状が著明な改善をみたというエビデンス(はっきりした根拠・証明)は、いささか少ないのが実情である。
しかし、フランスのアロマテラピーを実践している、少なからぬ医師は、これらの精油を、連日15mlもの量を未稀釈で患者に経口摂取させたり、直腸から直接血液中に入れたりして好結果をみたと報告している。
しかし、英国の研究者・医師などの多くはこの報告自体を疑問視しており、in vivoで、つまり生体内ではもっともっと精油は薄めなければ危険だとしている。
マリア・リズ=バルチン博士は人間の回腸内などでは20万分の1以下の濃度に稀釈しても、これらの精油は活性を示すと警鐘を鳴らしている。
こうした点が英国とフランスとのアロマテラピーの差の一つなのであろうが、精油の経口摂取に関しては、私はこう考えている。
①人間は、そんな高濃度の精油を稀釈しないで飲んだ経験が、人類誕生以来700万年間ないことから、人間の身体は、それをうまく受け入れ、かつ代謝して排泄するようにはなっていない。
②それに関連して思うのは、このことは精油のみならず、ビタミン剤、ミネラル剤とくにサプリメント類なども含めてあてはまり、こうしたものが含有する栄養分は、やはり通常の食品からさまざまな夾雑物を含めたかたちで摂取するのがもっとも自然で健康的な方法であろうということである。
精油(エッセンス)の効果と作用①
精油は、疾病を治癒させる力が、どの精油・エッセンス類にもかならずあるか。
答えは残念ながら「ノー」だ。治癒させる力が皆無というのではない。精油の一部に、ときとしてそういう力を発揮させるものがあり、それらを適切に用いてはじめて所期の目的を果たすケースがある、といっておくのが無難である。
精油類を使用しても、各種のガン、そのほかの重い疾患をいやすことは、いまのところ不可能だ。アロマテラピーは、魔術でも魔法でもなく、何か奇跡のようなことを行う治療法でもない。
精油、エッセンスの有する治癒力は、まず第一にそれらがもつ「抗微生物作用」 にある。
抗微生物作用。すなわち、細菌・ウイルス・真菌の増殖を抑えたり、それらを死滅させたりする精油、エッセンスの種類は多く、これまで各種の疫病・伝染病が、これらの力によって防がれ、またそれによって傷のなおりも促された事実がこれまでに厳としてある。
ジャン・バルネ博士が、インドシナ戦争(第一次ベトナム戦争)の際に、未稀釈のティートリー油を傷病兵にたいして局所的に体表に使って、見るべき成果をあげたというが、私はこれは信じてよいと思う。
ティートリー 油は、インドシナ半島から程遠からぬオーストラリアですでに対日戦時に用いられていて効果があったことは、バルネ博士も軍医として知っていたであろうし、これをフランス側に立ってベトナム人の独立を圧殺しようとしていた米国のほとんど属国化していたオーストラリア・ニュージーランドからとりよせることは、比較的容易だったはずだからだ。
しかも、ティートリー油は、ほかの各種の精油と異なり、香料とか香水などの原料として利用されないので、よけいな(しかも人体に危険性を示すかも知れぬ)化学増量剤などを含まず、100パーセントピュアなものであった。そうした精油には、ユーカリなどもあげられる。
ジャン・バルネ博士自身も、この戦場で(インドシナ半島)、何と何との精油を使用したか明確に記していない(これは、博士も医師として不誠実のそしりを免れまい。守秘義務なんてあるわけもないからだ)。
なお、バルネ博士が第二次世界大戦中からアロマテラピーを実践したかのようにいうものもいるが、実際にはこのインドシナ戦争からである。
しかしまた、一部のアロマテラピー関係者が主張するように、たとえばキャリヤーオイル10mlのなかに1~2滴だけ精油を入れてこれを稀釈し、これを患者の全身にマッサージして、その患者の体内の組織・器官に侵入し、感染症を起こした細菌、その他の微生物類にその効果を十分に発揮させるのは、理論的にいってムリである。皮膚表面にキャリヤーオイルに稀釈した精油をマッサージしている間に、無駄に空気中にいかに多量の精油が蒸散してしまうかを考えてみればすぐわかる。
皮膚から体内に浸透する精油の速度は、残念ながらきわめて緩慢なのである。したがってその絶対量も少ない。
また、精油類は人体に悪質な微生物だけを殺し、人間に悪さをしない微生物には何もせず放置するなどというタワケタ主張をするものがいるが、これは全くのウソである。むろん精油によって、その種類によって、それが殺す微生物の種類と総量とに差が生じることは確かだが。
そう世の中は、また自然界というものは、人間にばかり都合よくできているものではない。
バイブルの記述をあまりマトモにうけとってはいけない。
2013年9月24日火曜日
「バレエ・リュス」とアロマテラピー
以上、いろいろな観点から、バレエ・リュスについてのべてきたが、これは、当時のほとんどのヨーロッパの芸術家たちが「芸術のめざすのは、人間の感覚を陶酔させることだ」と信じて、さまざまな作品をものしてきたこと、そして、その一つの象徴的なかたちが、絵画・文学、そしてむろんのこと、その結果、舞踊というものが、その時代思潮をあらゆる方面に拡大延長していった事実を史実に照らして確認したかったからである。
その作品にさまざまな形式で接する人を「陶酔させること」
--それが果たして芸術の真の存在理由であるかどうかは、まさに神のみぞ知るところだろうが、当時の人びとの多くは、ことに芸術家たちは固くそう信じた。
その象徴的なものが、「バレエ・リュス」だった。バレエ・リュスが提出した答えが、人類が古来、営々とつくりつづけてきた「芸術」ないし「芸術的」な作品のただ一つの存在理由に収斂するか否か私には疑問だが、19世紀末から20世紀初期にかけて、多くの芸術家が提出したこの答えにたいして、まだ私たちが明確な一定の反応なり態度なりを示せずにいるということは確かであろう。
さて、第一次大戦後、フランスの領土になったアルザスに移住した、マルグリット・モーリー、本名マルガレーテ・ケーニヒは、やはり外科医の補助をする看護師のしごとをここでつづけていた(アルザスはフランス領といっても、住民はドイツ語〔厳密にはそのアルザス方言だが〕を話していたので住みやすかったとも考えられる。この地方の住民がまるでピュアなフランス語を話していたかのように書いた、フランスの三文右翼作家ドーデの『最後の授業』は、ウソの固まりだ)。
また、よくマルグリット・モーリーは「生化学者」などといわれるが、少なくとも、今日biochemistry(生化学)というタームが意味するものは、彼女が「研究」していたとされるものとは大幅に異なることも知っておいて欲しい。
フランスで、ホメオパシー医のモーリーと知り合った彼女は、モーリーと再婚し、以後自分の名前もフランス風にMarguerite Maury (マルグリット・モーリー)と変え、それからは、ずっとこの名で通した。
ホメオパシー医の夫のモーリーは、中国やインドやチベットの宗教・哲学などにかなり詳しかったとみえ(正確だったかどうかは別問題だ)、マルグリットは夫からその方面の知識を教わった。
ここに、私はバレエと、総じて芸術とアロマテラピーとの幸福な結婚を見いだすのである。
マルグリット・モーリーが受賞したとき、彼女は会長の地位を退いていたが、マルグリットは依然として、CIDESCO内で隠然たる勢力をふるっていた。
したがってCIDESCOが最優秀エステティシエンヌに賞を授与するとなれば、彼女に与えるしかなかったのだ。このことを、マルグリットの弟子だったダニエル・ライマンに確かめたところ、ダニエルは苦笑まじりに肩をすくめ、「仕方なかったんですよ(Que voulez-vous?)何しろ、技術面でも理論面でも彼女に比肩できる女性はいなかったのですから(Elle était sans égale)」と言っていた。
だから、マルグリットの受賞には「お手盛りの感がある」と私は言ったのである。そのくらいのことは調べてから、人に文句をつけるものですよ、お嬢さん、いやおばさん。
ここに、藤田博士は黒魔術の臭いをお嗅ぎになるのだろう。
アールヌーヴォーの衝撃②
沖縄県那覇市・兵庫県明石市でのアロマテラピーの講義とその準備、今後の講演の打ち合わせなどに時間がかかってしまい、執筆が予想以上に遅延したことを深くお詫びいたします。
今回は、アールヌーヴォーを支える精神的な支柱を、バレエという、人間が生み出したもっとも美しい芸術としばしば称される、人間が身体を駆使して、その魂を、その精神を縦横に表現する芸術を、今日の姿に育てあげた功労者の一人、ロシア人、セルゲイ・パヴロヴィッチ・ディアギレフについて語りたい。
ディアギレフは、1872年、ノヴゴロドの近くのペルミの比較的裕福な地方貴族の家に生まれた。母は彼を生んだその3日後に亡くなった。父親の再婚に伴って、当時の首都サンクトペテルスブルクで幼少時代を送り、10歳のとき故郷ペルミに戻った。
継母は彼を実の子のように心から愛した。この継母は莫大な財産の持ち主だった。何不自由ない青少年時代を送ったディアギレフは、1910年に再度上京して、ペテルスブルク大学の法科に籍をおいた。
しかし、彼は法律の授業にはほとんど出席もせず、芸術家を志して作曲・声楽を学び、マリインスキー劇場などで開催される演奏会などに頻繁に通った。のちに創刊する、『芸術世界(ミール・イスクーストヴォ)』誌で、ともに活動するアレクサンドル・ブノア(ロシアではベノアと呼ぶ)、レオン・バクストといった芸術愛好家らとの面々と知り合いになり、芸術談義に花を咲かせた。
しかし、作曲の師であるリムスキー=コルサコフから、「君には作曲の才能が欠如しているよ」と引導をわたされ、声楽も声質が悪かったことから(ピアノ演奏の腕前は相当のものだったらしいが)、みずから芸術家になることをあきらめた。そして、大学卒業後、自分を深く愛してくれた継母を亡くした彼は、継母の莫大な財産を手に入れ、西欧各地を旅行した。
そして、方々で名画を購入し、その展覧会を開催し、1897年以降6回も皇帝一族をその会に招待した。
同年、ブノアやバクストらと『芸術世界』を創刊したディアギレフは、1904年に同誌を廃刊するまで、英国のビアズレー、フランスのモネら西欧の新しい美術やロシアのアヴァンギャルドの画家たちの作品を誌上で紹介しつづけた。ディアギレフらは、さらにこの雑誌で安藤広重や葛飾北斎にいたる幅広い世界の芸術をロシア人に知らせた。これは日本人も知っておくべきだろう。
こうした活動の総決算のようなかたちで、1905年にディアギレフらはサンクトペテルスブルクのダヴリーダ宮殿で、『ロシア歴史肖像画展』を開催し、貴族皇族のコネを利用して、帝室の芸術作品のコレクションおよび全国各地から集めたものを約3000点を展示した。
このとき室内装飾を担当したのが、レオン・バクストだった。このころのロシアは迫り来る革命、日露戦争という内憂外患に悩まされる、ひどい不安定な情勢のもとにあったが、この展覧会には、ロシア帝国の最後の皇帝となってしまった、ニコライ2世をはじめ、多くの人びとがつめかけ、世界の芸術の新風を理解しようとした。
こうした空気がロシア革命直前から1930年代まで続行された「ロシア アヴァンギャルド」芸術を醸成(じょうせい)したことは確かだろうと思われる。
混乱する政治状況のもと、ディアギレフは西欧にロシア文化を大々的に紹介しようと考えた。
1906年に、彼はパリのプチ・パレでロシア人画家たちの大規模な展覧会を開き、これを成功させた。これによって、ディアギレフは、フランスの文化界・社交界と交流するきっかけをつくった。
ついで、ディアギレフは、ロシア音楽をパリで紹介することを計画し、1907年5月に5日間にわたる演奏会では、作曲者ラフマニノフ自身のピアノ演奏(彼はピアノの名演奏家でもあった)による『ピアノ協奏曲第二番』が披露され、さらにリムスキー=コルサコフ、スクリャービン、グラズノフがそれぞれ自作を演奏し、さらにチャイコフスキーの『交響曲第二番』その他のロシア音楽の粋というべき名曲の数々がパリジヤンに紹介され、これまた大成功を収めた。また、彼は世界のオペラ史上に不朽の名声を残したフョードル・シャリアピンによるオペラ『イーゴリ公』の抜粋版を上演させ、シャリアピンを主役にしたモデスト・ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』全幕上演を、パリのオペラ座で実現させた。
パリの聴衆は、バス歌手シャリアピンの比類のない柔らかいバスの美声の歌唱力と、その演技力にひたすら驚嘆した(ちなみに、シャリアピンはラフマニノフの無二の親友だった)。
つぎに、ディアギレフはロシアのバレエをシャトレ劇場で「バレエ・リュス(ロシアバレエの意)」として発表した。ここでは『アルミードの館』、オペラ『イーゴリ公』の第二幕から独立させた『ポロヴェツ人の踊り』、『レ・シルフィード』、『クレオパトラ』などがパリの人びとに初めて紹介され、アンナ・パヴロワ、ヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサーヴィナなど、ロシアでもっとも優れた若手バレエダンサーたちの目を見張る超絶的な舞踏テクニック、演劇的表現力、さらには前述の『ポロヴェツ人の踊り』での、これまでフランス人も英国人もまったく知らなかった男性ダンサーたちの勇壮な迫力に満ちた踊りは、19世紀後半からとくにパリで凋落(ちょうらく)し、腐敗しきっていた「バレエ」(フランスなどのバレリーナは売春婦同然の存在だった)というものしか半世紀近くも知らなかったパリの観客に一大衝撃を与えた。
この男性がバレエで踊るということについて、英国の有名なバレリーナ、マーゴ・フォンテーンが「英国など西欧の男性は、踊ることを恥ずかしがっていたが、ロシアや中東やアジアの男性は進んで踊る。踊りを好む。これが、西欧がバレエにおいて、とくに男性ダンサーに活躍の場を与えず、バレエでロシアに遅れを取った原因だ」という意味のことを語っていた事実が想起される。そういえば、日本人男性もさまざまに祭りの踊りをやるし、日本舞踊の家元はほとんどが男性だ。
マーゴ・フォンテーンは幼少時に父親の赴任地、上海でロシア人男性バレエ教師からバレエの手ほどきを受けていた。
ディアギレフのパリでのバレエ公演は、芸術的には大成功を収め、バレエ・リュスの名声は英国に伝わり、ロイヤルバレエ団を結成させ、米国のニューヨークシティーバレエ団をつくらせるという結果を生んだが、財政的には、ディアギレフはほとんど破産状態だった。(当時はテープレコーダーのようなものなどなく、リハーサル時にもオーケストラ団員に報酬をいつも支払わなければならなかった)。にもかかわらず、ディアギレフは将来の公演に備えて、ラヴェルに『ダフニスとクロエ』の、またディアギレフが発見した新進作曲家ストラヴィンスキーに『火の鳥』の作曲をそれぞれ依頼し、ロンドンに行って、公演会場探しをやったりしている。
彼をそこまで駆り立てたものは、いったい何なのか。金をもうけようなどという気でなかったことは、火を見るよりも明らかだ。
話はちょっとそれるが、バレエ・リュスに参加して、フォーキンが、10分という短時間で振り付けたサン=サーンスの『動物の謝肉祭』の『白鳥』に題材をとった『瀕死の白鳥』を踊って、世界的な名声を得た、20世紀初頭の最高のバレリーナ、アンナ・パヴロワ。彼女も第二の「バレエ・リュス」である。
アンナ・パヴロワは、もとより航空機もなく、鉄道網もおよそ整っていなかった当時、ヨーロッパ各国ばかりでなく、米国、英国、中南米諸国、オーストラリア、インド、東南アジア、日本にまでも足を延ばし、ロシアのバレエを紹介して普及させた。
彼女は実に地球を13周ぶん以上もの距離を旅し、地の果てまで回った。今日、私たちがチャイコフスキーの『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』アダンの『ジゼル』などを観賞できるのも、アンナ・パヴロワとディアギレフとの両人のお陰である。
ただ、この二人の天才は、ソリが合わず、とくにパヴロワはストラヴィンスキーの音楽が大嫌いで、ディアギレフとともに『瀕死の白鳥』などで全ヨーロッパに名を轟かせたのは、ごく短期間であった。
彼女は日本では、1922年横浜や東京などでバレエを披露し、とくにパヴロワの代名詞にまでなった演目、『瀕死の白鳥』は、バレエに初めて接した日本人にも感銘を与え、芥川龍之介は「今日、僕は非常に美しいものを見た」と記しており、また歌舞伎界の六代目尾上菊五郎もパヴロワと芸談に花を咲かせ、パブロワの踊りに感銘を受けた菊五郎は、歌舞伎舞踊の『鷺娘(さぎむすめ)』に、『瀕死の白鳥』の振りをとり入れた。
彼女は50歳代初めに、オランダ公演へ赴く途中で病気に倒れ、手術を拒否して他界した。「白鳥の衣装をもってきて・・・」というのが、熱にうなされたパヴロワの最後のことばだった。
彼女が生きていれば公演するはずだった、オランダの劇場では、オーケストラがサン=サーンスの白鳥の曲を演奏し、投光器がパヴロワが踊ったであろう位置にライトをあて、観客はシーンとしてそれを見守り、曲が終わると万雷の拍手を送ったという。
以後、20年もの間、『瀕死の白鳥』を踊るバレリーナは出なかった。不世出のバレリーナといわれたアンナ・パヴロワと技倆をあからさまに比較されるのを恐れたこともあろうし、フォーキンとパヴロワとが創り出した一種の神聖な空気を犯す涜神(とくしん)的な行為と考えたこともあるだろう。
やがて、ソ連の名バレリーナ、マヤ・プリセツカヤがフォーキンの原振付けを少し変えて、『瀕死の白鳥』を踊り、以後、何人もの有名なバレリーナが、あるいはフォーキンの原振付のまま、あるいはそれをすこし変えて踊り続けている。
ロシアの男性ダンサーのファルフ・ルジマートフも、男性用タイツ姿でこれを見事に踊ってみせている。
話をディアギレフに戻すと、1910年、ディアギレフはバレエ団を再編成し、パリのオペラ座でストラヴィンスキー作曲の新作の『火の鳥』のほか、バレエ用に組曲を改編したりムスキー=コルサコフの『シェエラザード』を上演し、またまた大成功を収めた。
この公演では、ブノワ、バクストらの舞台美術も、フランスの芸術家たちに非常な刺激を与えた。とくに『シェエラザード』は、その踊りもさることながら、アールヌーヴォーの香りを漂わせるその舞台美術、衣装、大道具、小道具は、同時にそのころのパリの人士たちの夢想する「豪奢(ごうしゃ)で、華麗で、神秘的で、エロティックで、残酷なオリエントの世界」に、ひとときなりとも、思うさま浸りたいという思いを十二分に堪能させるものだった。ニジンスキーやカルサーヴィナらの演技がエロティックすぎる、アブなすぎるという非難の声もあがり、退席する観客もいたほどだが、それがまたさらに人気を呼んだりした。
バレエ・リュスのこのエキゾチックな魅力は、フランスの「野獣派(フォーヴィスト)」と呼ばれる画家たち(とくに、マチス、ヴラマンク、ブラックなど)や、またある意味で従来の芸術的な理念、アールヌーヴォーのアンチテーゼ的な観念、アールデコ様式を理想とする人びと(イラストレーターのジョルジュ・バルビエなど)にもまた反面教師として影響を及ぼした。
ロシア芸術は、芸術理念の変容をつぎつぎに生み出していく、きわめて豊穣(ほうじょう)な美田だったのだともいえよう。
こうして、2度のバレエ公演を成功させたディアギレフは、1911年に正式に常設のバレエカンパニー「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」を結成した。ディアギレフは、天才を発見する天才だった。彼は多くのフランス・ロシアなどの優秀な若手の芸術家を動員し、「総合芸術としてのバレエ」という、前代未聞の芸術スタイルを確立した。
三島由紀夫が「軽金属製のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と評したジャン・コクトーも、 バレエ・リュスの脚本作りに参加し、『失われた時を求めて』のプルーストもこのバレエを観賞して「こんなに美しいものを見たのは、生まれて初めてだ!」と叫んだことも付言しておこう。
このバレエ・リュスでは、新進気鋭のミハイル・フォーキンの振り付け作品が大半だったが、天才的な技巧と演技力をもつダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキー(彼の超絶的テクニックの一つを具体的にお話しよう。ニジンスキーは、ピョンと一度飛び上がって、ふたたび着地するまでに、両足の裏を10回、打ち合わせることができた。みなさんも、一度お試しいただきたい)は、新作バレエの振り付けも行った。そのほかの有名な振付師は、レオニード・マシーン、ブロニスラヴァ・ニジンスカ(ヴァーツラフ・ニジンスキーの妹)、ジョージ・バランシンらがあげられ、いずれもユニークな振り付けを競うように行った。
ストラヴィンスキーは、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』、『プルチネルラ』などを作曲し、ラヴェルは『ダフニスとクロエ』、ドビュッシーは『遊戯』、プロコフィエクは『道化師』、『鋼鉄の歩み』 、サティーは『バラード』、レスピーギは『風変わりな店』、プーランクは『牝鹿』など、今日なお私たちの耳になじみ深いたくさんの新進作曲家たちがみな、ディアギレフの求めに応じてバレエ音楽を真剣に創り出した。それまで多くの作曲家は、バレエ音楽というものを軽視、あるいは蔑視(べっし)していた。チャイコフスキーは、例外的な存在だった。それかあらぬかフランス人の多くはチャイコフスキーを平凡な作曲家としかみなかった。
バレエ・リュスの舞台芸術を手がけたものには、ロシア人ばかりでなく、ピカソ、マチス、ローランサン、ミロ、ルオー、ユトリロなどの有名な画家たちがいる。彼らは、そこからまた逆に自分たちの霊感を得たに相違ない。彼らの画風は、このあたりを境にそれぞれ大きく変化していった。
パリ社交界のパトロンたちや、デザイナーのココ・シャネルらは、バレエ・リュスの活動を金銭的に援助した。公演が成功しても、ディアギレフの手にはほとんど金銭は残らなかった。どう工夫しても、支出のほうが収入を上回ってしまうからだった。
ディアギレフは、新作バレエだけでなく、チャイコフスキーの『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』、アダンの『ジゼル』も上演した。
ディアギレフは、ロシアオペラの上演も何度となく行った。リムスキー=コルサコフの『プスコフの娘』、『五月の夜』、『金鶏』、ストラヴィンスキーの『マヴラ』などがその演目である。
ディアギレフは、1929年にドイツやスイスなどを旅したが、同年の8月19日に持病の糖尿病が悪化して、ヴェネツィアのホテルで死去した。そこに駆けつけたのが、ココ・シャネルとそのポーランド人の女友達、ミシア・セールだった。ディアギレフは、このときほとんど無一文だった。金目のものは、せいぜいカフスボタンぐらいだった。
ココ・シャネルは、たまっていたホテル代を支払い、ミシアと二人だけでディアギレフの野辺送りをした。ディアギレフの遺骸は、ヴェネツィア近辺のサン・ミケーレ島に埋葬された。世界大恐慌のおこる二ヶ月前のことであった。
バレエ・リュスは、ディアギレフの他界によって解散したが、その団員からはバランシンらのように、ロシアのクラッシックバレエの伝統と真髄を英米に移植したものや、バレエ教師となって多くのダンサーを育てたセルジュ・リファールのように、パリ・オペラ座のバレエを復活させるのに貢献したものがつぎつぎと出た。2012年に亡くなったモーリス・ベジャールもこの系統の人物である。極論すれば、ディアギレフとはやばやと決別したアンナ・パヴロワなどは別格として、直接間接にディアギレフのバレエ・リュスの影響を受けなかったバレエダンサーは少ないといってよいだろう。
ディアギレフは、実母が自分を生んだことで死んだり、継母に深く愛されたりしたことが原因しているのかどうかわからないが、(英ソ合作の映画『アンナ・パブロワ』には、そんなことをにおわせるセリフが出てくるが)、ともかく、一生を通じて同性愛者で、女性を愛した経験は皆無だった。したがって、彼の子孫はいない。
彼には、性愛の対象の男性を一流の芸術に触れさせて教育する癖があった。その相手としてもっとも有名なのが天才的バレエダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーである。ニジンスキーのほうは、ディアギレフのような「真正同性愛者」ではなく、ディアギレフとの関係に嫌気がさして、勝手に女性と結婚して、ディアギレフの逆鱗に触れて絶縁されたが、その後もディアギレフはマシーン、リファール、晩年には秘書のボリス・コフノともそうした関係をもった。
そんな関係をディアギレフともったことが原因かどうかわからないが、この天才的ダンサー、ニジンスキーは8年間活躍しただけで引退してしまい、統合失調症(精神分裂病、スキゾフレニア)になり、その後の人生は精神病院をたらい回しにされ、インスリンショック療法を受けつづける痛ましいものだった。そんな彼を妻ロモラは献身的に看病したが、症状は好転せず、1950年、ロンドンで生涯を閉じた。ロモラは『神との結婚』という回想録を書いている。
2013年8月14日水曜日
アールヌーヴォーの衝撃①
19世紀の後半、東方から(ある英国人は、私に、中央アジアのサマルカンドあたりからではないか、となかば真剣に言っていた)、一陣の魔法の風が、ロシア、オーストリア、フランス、そして英国に吹き寄せてきた。そして、この風は大西洋を渡って米国に、さらには極東の日本にも及んだ。
この風は、建築・家具・ガラス工芸・宝石細工・ポスター・挿絵など、人びとの身のまわりのもののデザインにまずあらわれた。
この様式、あるいはそれを生み出した風潮を、まとめてフランス語で《Art nouveau》アールヌーヴォー-すなわち、新しい芸術と称する。フランス・ベルギーのフランス語圏では《Style nouveau,スティルヌーヴォー》、《Style moderne、スティルモデルヌ》とも呼んだ。前者は「新しい様式」、後者は「モダン様式」を意味する。ドイツでは《Jugendstil》ユーゲントシュティル(青春様式)と称した。
各国の貴族社会が崩壊しつつあったこの時代、資本主義はいちだんと発展し、都市化・工業化がヨーロッパ各国で進展した。
各国の芸術家は、工業社会がもたらす醜悪な生活環境に抗議し、新しい酒を満たすのにふさわしい新しい皮袋を創り出そうとした。
しかし、この「魔法の風」は、それにふさわしい不思議な吹き方を幾重にもわたってした。
アールヌーヴォーが最初にあらわれたのは、産業革命が各国に先駆けておこった英国である。それだけ工業社会の空気と芸術との矛盾が、あるいは乖離(かいり)が甚だしかったためだ。19世紀のなかばに「ラファエル前派」そのほかの芸術上のさまざまな動きからはじまったこの風潮は、いろいろな芸術家の手で本の挿絵(ビアズレーなど)、ガラス器、銀器、家具などにおいて、すべての面でスッキリした曲線をもつものとして(つまり従来の自然主義・アカデミズムのアンチテーゼとして)具象化された。
この風潮はすぐにベルギー・フランスに波及し、エミール・ガレがこの時代思潮にみちたガラス器、ルネ・ラリックは宝石細工に、自然を美しく造形化した作品をいくつもつくった。
こうした作風は、パリの地下鉄の入口のデザインにも取り入れられ、パリの風物詩となった。エッフェル塔も、いかにも近代を感じさせる素材の鉄を用いて、パリの空を斬新な線で切った。
スペインのバルセロナで、いまだ建築中の大教会堂の「サグラダ・ファミリア」などで高く評価されつづけているスペインのガウディーもこのアールヌーヴォーの理念を生かして、これまでの建築物の概念をがらっと変えてしまった天才の一人だ。
絵画やポスターなどの方面で有名なアールヌーヴォー派は、チェコの(当時オーストリアの統治下にあったので、オーストリアのといわれることが多い)アルフォンス・ミュシャの演劇の主催女優の美しさをくっきりした線でえがきだしたポスターは、フランスの名女優サラ・ベルナールらの視線をひきつけ、人びとの非常な人気を集め、オーストリアのクリムトの絵画は、装飾的・官能的な 女性像を多く残した。金箔(きんぱく)を多用した『接吻』と題する新しい絵画は、きわめて華麗な平面的な(ここに当時の日本趣味が底流としてあったことも忘れてはならない)、いままでのアカデミックな絵画とはまったく異なる次元の空間を出現させた。パリのミュージックホールなどのポスターで有名なトゥールーズ・ロートレックの名も落とせない。
こうした19世紀後半から20世紀初頭にかけての時代精神(ドイツ語でいうZeitgeist)は、音楽の世界にもひろがっていき、ドビュッシーやラベルそのほか無数の音楽家に、聴く人々を夢幻の世界、心をこよなく陶酔させるエクスタシーの境地に導く楽曲をつぎつぎと生み出させることになった。
絵画にせよ、音楽にせよ、いままでのアカデミックな世界の創造をめざしてきた芸術家たちは、いっせいに表現の方向を変えていった。19世紀初頭に写真が発明されて多くの画家たちに 「絵画は死んだ!」といわせ、嘆かせた絵画を、写真では描写できない甘美な絵画のみが再現できる世界、古い世の崩壊の予兆をひしひしと実感させる世界を、人々に実感させようと気鋭の画家たちはキャンバスの上に、ポスター類の上に表現しようと考え、工夫をこらした。
音楽家たちも、いままでのアカデミックな世界から人を夢幻の世界に拉しさる曲をつくるようになった。ドビュッシー、ラベルその他 多くの音楽家たちは、いままでの官廷で演奏されてきたような古典的な楽曲ときっぱり縁を切り、一般の人々を音で酔わせるメロディーをつぎつぎに奏ではじめた。
私は、この時代よりやや遅れて登場した日本人画家の佐伯裕三(さえき・ゆうぞう)が、渡仏して、自分の作品をフランスの大画家に見せたところ、“Cet académisme!(何だ、このアカデミズムは!)”と、嘲るように一喝され、愕然とし、時代の変遷を豁然と大悟して、以後その画風を一変させたというエピソードをいつも思い出す。
今回は、ここまでにし、いよいよこの風潮が一体に結集した「バレエ・リュス」について、次回お話ししようと思う。
これこそが、アロマテラピーに深甚な影響を与えた一大イベント、二度と再び世界の人びとが体験することはない空前絶後の芸術のフェスティバルだったからだ。
このフェスティバル (これは、あまりに俗人の手垢がついてしまったコトバなのだが)ないし、近代芸術の「総結集」こそが、現代のあらゆる芸術の母体となった。
私自身の気分をここで一新させ、稿をあらためなければ、このバレエ・リュスについて語り尽くせないことを、なにとぞご了承いただきたい。次回をお楽しみに。