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2015年1月6日火曜日

〔コラム〕CNV (Contingent Negative Variation - 随伴性陰性変動) について ー 鳥居鎮夫先生の思い出

 私たちの脳(正しくいえば脳の神経)が活動するときに発生するごく微弱な電気をいろいろな方法で増幅して、その時間とともに変化するようすを記録すると波形図が得られる。これを「脳波(electroencephalogram EEGと略称)」と称する。
 ヒトの脳波を最初に発見し、観察したのはドイツの精神科医、Hans Berger(ハンス ・ベルガー)で、1942年のことである。
 脳波にはいろいろな種類がある。脳波はふつう、頭皮の上に置いた電極から電流を導き出す。おとなの場合、心身ともにリラックスしているとき、α波という10ヘルツぐらいの、あるいはβ波なる20ヘルツ前後のちょっと速めの脳波が観察される。興奮すると、α波が消失してしまう。眠っている間には、ゆるやかな大きなδ波(4ヘルツ未満)が現われる。脳細胞が生み出す電気の電圧は、最大でも100マイクロボルト程度である。
 
 そこで、脳波を調べることは、脳がいまどんな活動をしているかを知るうえで、大切な手がかりになる。脳精神疾患、とりわけ癲癇(てんかん)とか頭部に外傷をうけたとき、あるいは器質的な脳疾患などでは、それぞれの症状の程度に応じた異常な脳波がみられる。
 
 とまあ、基本的な脳波の知識を頭に入れておいて頂いて、標記のCNV、すなわち随伴性陰性変動についてお話しする。
 
 私たちの脳は、生命にかかわる重要な働きをし、学習の中枢となっている。脳の大切な部分は大脳、間脳、中脳、小脳、橋(きょう)、延髄などからなっていて、私たちの心と体との多種多様な働きをさまざまな形態で司っている。
 
 大脳半球の内側・底面、それに機能上一体となって作動する視床下部をひっくるめて「大脳辺縁系(limbic system cerebrum)」と呼ぶ。
 ここは自律系の統合中枢で、呼吸・循環・排出・吸収に関与する。それとともに、この部分は怒り・喜び・悲しみといった人間の基本的な情動を生み出し、また性欲・食欲という種族維持・個体維持に必要な「本能的欲求」の形成にかかわる、ヒトという動物を生かし続けるベースとなる、人間にとっての最重要部分である。
 ここはさらに、古くから嗅覚に関係するところだということが知られている。だから古くはここを「嗅脳」と称した。
 先ごろ他界された東邦大学医学部名誉教授の鳥居鎮夫先生は、におい・芳香が脳の活動に及ぼす効果、あるいは心理的な効果を客観的に測定するために、香料(精油およびアブソリュート)を使った実験をなさった。
 鳥居先生は、随伴性陰性変動(CNV)と称される特殊な脳波に着目された。この脳波については重ねて後述するが、先生は鎮静作用があるとされたきたラベンダー精油、並びに刺激・興奮作用を示すといわれてきたジャスミンアブソリュートを使用して被験者の脳内部から導出されたCNVをグラフにして発表なさったのである。
 
CNV graph
 
 鳥居先生の発表なさった上述のことを、もう一度レジュメして、ここで解説すると、およそ次のようになるかと私は考える。
 人間の大脳の内奥部には、いくつもの電気的な現象が観察される。それがつまり脳波と呼ばれる形態で私たちが把握するものだが、その一つ随伴性陰性変動は、被験者が「さあ、これから何かがおこるぞ」と、いわば「期待している」状況のもとで生まれる、期待波とも称される脳波だ。
 
 香りの刺激をうけて興奮する部分は、今もいったように私たちの脳の深部に位置する。それを直接捉えるには、脳の奥深く電極を挿入しなくては、その嗅覚による刺激で生じる脳波の変化をダイレクトにキャッチすることは、本来できない。しかし、現実に人間を対象にしてそんなテストを行うことは無理である。
 そこで、この脳波に生じる異常をなんとかして頭皮に接着した電極によって捕捉しなくてはならない。この脳波の変動は脳内から脳の表面部分に、一定の状況のもとで「上方に」移動して伝達される。
 たとえば、ある音を被験者に聴かせてその刺激を与え、それに続いて、ちょっとしたタイムラグを置いて光による刺激をその被験者に、つまり被験者の脳に与える。そして、テーブルなどの上に置いたボタンを示して、「光が見えたら、できるだけスピーディーにそのボタンを押して、その光を消してくださいよ」と依頼しておく。
 この音と光という二つの刺激の、そのあいま、つまり被験者が「これからコトがおこるぞ、おこるぞ」と「期待」しているときに、被験者の脳波(電気脳造影図 - EEG)の基準線から比較的緩慢な、上方への移動が看取される。そして、被験者がボタンを押してその光の刺激を自らシャットダウンすると、この移動は見られなくなる。つまり音と光という両方の刺激に随伴してEEGがマイナスの方向に変動する移動現象(CNV)が生じるわけである。
 
 鳥居先生は、これを被験者に香りの刺激を与えてテストし、CNVで香り・においの刺激が惹起するとされてきた、たとえば「刺激効果」あるいは「鎮静効果」を客観的に提示できるのではないかとお考えになり、その試験にチャレンジなさったのである。
 
 先生は、刺激・興奮作用があると言われるジャスミンアブソリュートの芳香がこのCNVの「振幅」を確かに増幅させること、そして、他方、鎮静効果を示すとされるラベンダー精油の香りが被験者のCNVを抑制することをそれぞれ客観的な形で示せることを証明された。
 
 従来、ジャスミンアブソリュート、ラベンダー精油のヒトに及ぼす効果は、アロマ関係者、アロマテラピー関係者の間でひろく語られてきた。しかし、それは科学的な裏付けを欠いていて、万人を納得させるものではなかった。それに対して先生はこのCNVを利用して、これらの香りの人間に与える「効果」を科学的に、大脳生理学的に、きちんとすべての人にわかるように図示され、科学の面から立証なさったのである。
 
 このことは、世界中のアロマテラピー関係者を狂喜させた。無理もない。いままでそうした作用があると、いわば「伝承」されてきた香りの、あるいは精油などの芳香の「効果」が科学という銀の裏打ちを施され、アロマテラピーというもの自体に不信・疑惑の目を向けてきた人びとを説得する道が開拓されたからだ。
 鳥居鎮夫先生は、ひきつづいてさまざまな精油の人間の心理面への作用をCNVを用いて解明された。そうした成果は諸外国に広範に伝えられ、多くの香料化学者たち、アロマテラピー関係者たちをいまもなお「励起」しつづけている。
 鳥居先生と個人的にも親しくさせて頂いた私は、先生の生前のお姿をじかに脳裏に刻んだもののひとりとして、ここであらためて先生の、このご功績を讃えさせていただく。
 
 付記① 確か、1992年だったと思うが、このころから1985年いらい私がわが国に紹介し、伝え続けてきたアロマテラピーという新しい自然療法がようやく日本人にかなり浸透してきたことから、テレビ朝日から「芳香の生理的・心理的効果」について語って欲しいとの依頼をうけた(その後、私はNHKのテレビにも招かれた)。
 この東京のテレビ局での生放送番組には、私の他に後の日本アロマテラピー協会会長の鳥居鎮夫教授、香水専門家の平尾京子さん、さらに個人的には存じあげない香道の男性の先生などが同席された。
 私は、限られた時間の中で、できるだけ一般のテレビ視聴者の方がたにわかりやすくアロマテラピーについて解説したつもりだ。私の話の後、鳥居先生が、パネルに図示したCNVの波形の意味するところを学問的な立場から述べられた。香道の先生は、「そういえば、私ども香道の関係者は、日ごろから香りを聞き慣れて(つまり嗅ぎ慣れて)いますので、年齢を重ねてもボケたりするものはおりません」と発言したのも印象深かった。
 このテレビ放送は、夜遅く行われたので、後日、ハーブ専門家・園芸家の槙嶋みどりさんから、「夜、ふとテレビをつけてみたら高山先生が映っているじゃないの、どうしてこの放送のことを知らせてくれなかったのかしら」と思いながら番組に見入ったとのお話があったことも頭に浮かんでくる。
 番組の司会者(というのかキャスターというのかよく判らないが)が、飯星景子さんだったこともよく覚えている。彼女はこの直後に統一協会/教会に入り、その父の著名なルポルタージュ作家で元読売新聞記者だった飯干晃一氏が娘を脱会させようと必死に活動し、やっとそれに成功したことがマスコミで大きな話題になったからだ。
 
 付記② それにしても、鳥居鎮夫先生は実に謙虚な学者・教育者でいらっしゃったとつくづく思う。放送の後、鳥居先生は私に、「いやあ、私の知り合いのH香料会社が、香りについて何か数値を出せ、数字で示してくれとウルサクいうものですから、こんな図を作ってみたんですよ。私はね、仕事がら、まあこんなことしかできないものですから。私、ご存知のように日本のアロマテラピーの権威なんて言われているんですが、私自身アロマテラピーについてはまったく知らないんですよ。これからアロマテラピーを勉強することにします。高山さん、ぜひご教授願います」とおっしゃった。私は、後に日本アロマテラピー協会(現在の日本アロマ環境協会)の会長になられる先生の、この率直なことばに驚き、感激して、「もちろんです、何でも私の知っている限りのことはお話しいたします。その代り、今夜先生が発表なさったグラフを私の講演とか著書とかで引用させていただけませんか」とお願いした。先生は快諾(かいだく)して下さった。だから、ここでこの図表を載せる許諾は泉下の鳥居先生から直接いただいたのである。そして、私は先生にフランスのベルナデ、ラプラス、ブレーシュその他のアロマテラピーや、フィトアロマテラピーなどの専門家の知識をお取り次ぎさせていただいた。そして、先生にはこのことを第三者には決して洩らされぬように、私なりの考えからご依頼申しあげた。私のほうは、鳥居先生の専門の大脳生理学の知識を代りに頂いたことは申すまでもない。このことは本日まで、私は誰にも口外しなかった。しかし、もう時効だろう。
 私は、日本の、いや世界のアロマテラピーの歴史上、エポックメーキングな先生のご研究とその発表との一部にいわば皮膚で触れられたことを、生涯の幸福と考えている。
 
 フランスの詩人、ルイ・アラゴンは「教えるとは、希望を語ること、学ぶとは、誠実を胸に刻むこと」とその詩でうたった。教育というものの本来あるべき姿を、これほど明晰かつポエティックに魂をこめて表現したことばを、私は寡聞(かぶん)にして知らない。
 私はこのブログを通じて、ずいぶん現在のアロマテラピー界のことについて「毒舌」を吐いてきた。でも、それは逆説的な形で希望を語ろうとしたのだ。この療法への愛情を述べようとしたのだ。私の意図が皆さんに十分にお汲みとりいただけなかったとしたら、その責任は挙げて私にある。ご叱責・ご批判はいつでもお受けするつもりである。ぜひご指導願いたい。
 
 私は残り少ない命を、誠実にアロマテラピーの知識を脳裏に刻み付けることに、そしてこのアロマテラピーへの希望を可能なあらゆる方法で語りつづけることに献げたい。
 
 ことしも、みなさんの本ブログのご愛読をお願いして、筆を擱(お)く。
 
2015年1月6日
 高山林太郎

2014年11月13日木曜日

〔コラム〕ペットへのアロマテラピーについて一言

 近ごろでは、少子化と裏腹にペットを飼う人間が異常というか、異様にふえている。
ペットとして飼養される動物のチャンピオンは、なんといっても、イヌとネコだろう。あとは、小鳥や魚類(古典的な金魚、あるいは熱帯魚、広い池が邸内にあればニシキゴイなんてところか)や、ゲテモノ好きにはヘビ・トカゲ・カメレオン・カメなどの爬虫類などもあげられるだろう。
 
 ここでは、イヌ・ネコに限ってお話ししたい。身近にこれらを飼っている人間がとくに多いからだ。
 では、本題に入る。
 私がアロマテラピーを足かけ30年前に日本に紹介してから、英国・フランス以上に、わが国ではそれこそ猫も杓子(しゃくし)もこの自然療法を、その実体を、その本質をろくに理解しないままもてはやすようになった。
 その結果、インチキな「アロマテラピー」がさまざまな形態で横行することになり、市販の「アロマテラピー用精油」の90パーセント以上が完全な偽物精油という状況が生まれてしまった。これについては、強調しすぎることはあるまい。
 
 日本人は、本当におとなしい。こんな精油で効果(プラシーボ効果以上の効果)が生じたら、キリストの復活以来の奇跡といってよい。高価な精油を購入し、それを自分の体に適用して効果がみられない場合、欧米人だったら精油の販売店に、精油のメーカーないし販売代理店にクレームをつけずにはおくまい。しかし、「お・も・て・な・し」の「美風」をよしとする大半の日本人は、それが中国産・韓国産のものだったら、目を三角にしてイキリ立つかもしれないが、おフランス産とかオーストラリア産とかいったラベルの精油・エッセンスになると、「アタシの体のほうが悪いんだわ」とムリヤリ自分を納得させてしまう。そして、この療法自体にムリがあるのではないかとの疑問を公けにするとか、「アタシの買った精油、本当にピュアなの? その証拠を見せてちょうだい」などと販売店にネジこんだりとかする行為には、まず絶対に走らない。私のようなヘソ曲がりは、千人に一人ぐらいなんだろう。
 
 しかし、その精油を使ったら、体調を崩してしまったと口に出していえる人間はまだよい。近ごろでは、自分の飼っているイヌ・ネコに、強引にアロマテラピーを施す人間がいる。よく考えてほしい。精油はテルペン類・アルデヒド類・テルペノール類・エステル類・ケトン類・酸類・フェノール類・オキシド類、例外的だが硫化物類などからなっている。人間の肉体は、これらを吸収してしかじかの効果を発揮させたのち、これらを代謝・分解し、排せつする働きが備わっている。むろんその精油が本物で、用法・用量が適切だったらの話ですよ。
 しかし、イヌ・ネコのような本来、肉食系の動物には、これらの成分のうち、代謝・分解できないものがあるのだ(代謝するための酵素がもともとつくれない)。それは、イヌ・ネコにとって毒物になってしまい、イヌ・ネコを病気にしたり、その命までも奪ったりしてしまう結果をもたらす。比喩として、穏当を欠くかもしれないが、ネコもヒトも体内で代謝分解できないメチル水銀が原因で、水俣病がおこったことを想起されたい。いま、たくさんのペットが、無知な飼い主の施す「アロマテラピー」の犠牲になって死んでいる。古い昔からの人類の友であるこうした動物たちの日本における実状を知ってほしい。
 
 半可通の、というより何も知らぬ人間の得手勝手なひとりよがりで「アロマテラピー」の犠牲にされるペットたちこそ哀れである。
 獣医師でもアロマテラピーについて、またそれを動物に施す際の的確な技術について十全に通じているものは、稀有といってよい。いままで、従来のさまざまな技術で動物の病気をちゃんと治してきた獣医たちが、何が悲しくて「アロマテラピー」などをいま慌てて採用する必要性が、必然性があるのか。
 
 結論として申しあげる。イヌ・ネコなどのペットを対象としたアロマテラピーは、不必要の一語に尽きる。 

2014年7月1日火曜日

インドシナ戦争時のジャン・バルネ博士

Dr Jean Valnet at Vinh-Yen.ベトナムのトンキン軍管区第1前進外科処置部隊主任として負傷兵の処置にあたる軍医隊長、ジャン・バルネ大尉(ヴィン=イェンの戦闘において)
photo : Ch.K.女史提供 
 
 
 
インドシナ戦争時のジャン・バルネ博士
 高山 林太郎
 
 1946年から54年にかけて、新たに建国したベトナム民主共和国が、インドシナの支配権の回復をもくろむフランスに対して行った独立戦争をインドシナ戦争という。
 米国からの膨大な援助資金と武器との支援をうけて、制空権を握ったにもかかわらず、54年5月ディエンビエンフーでの決戦で、フランス軍は大敗した。
 思えば、ナポレオンがロシアで大敗して以降のフランス軍は、ヘナヘナというイメージしかない。
 
 このフランス軍のほとんどは、いわゆる「外人部隊」(旧ナチスドイツ兵、アルジェリア兵、南ベトナムで徴兵した兵士など)からなっていた。旧ナチスドイツ兵は第二次大戦中、東部戦線でソ連軍に徹底的に粉砕され、祖国ドイツは米英空軍の猛爆で廃墟同然になり、働き口もなかったので、やむなく昨日まで自分たちが支配していたフランスの、その外人部隊に自分の身体と命とを売ったのだ。
 つい先日まで自分たちにペコペコしていたフランス人にアゴでこき使われるドイツ人たちは、なんの恨みもないベトナム人を相手に、地球の裏側で、ド・カストリなる焼酎みたいな名前のフランス軍司令官の命令下で戦わされた。戦意などわくわけがない。ドイツ人たちはヤケになってナチスの軍歌を高唱していた。体格も貧弱なベトナム兵の闘志には、最新式の米国製の航空機も大砲も歯が立たなかった。
 このベトナム兵たちの戦いを見たジャン・バルネが、自分自身パルチザン兵として活躍したおのれのかつての姿をそこに重ね合わせなかったはずはない。とはいえ、フランス軍の軍医大尉として、ジャン・バルネは負傷者たちの手当てに懸命にあたった。
 大国フランスは、弱小なベトナム民主共和国に敗北した。ド・カストリ司令官は、ベトナム軍の捕虜の身となった。帝国主義・植民地主義の時代は終わったのである(それにつづくベトナム戦での米国の悪あがきやアルジェリアの対仏独立戦争などはあったが)。
 
 このとき、ジャン・バルネは、オーストラリア・ニュージーランドから送られてきたティートリー油などの精油を実験的に「初めて」使用し、アロマテラピーを実践した。第二次大戦中から彼がアロマテラピーを行っていたように言う人間もいるが、みんな嘘八百だ。
 ジャン・バルネの心中を察するに、これ以降、ほとほと彼は戦争が嫌になったのだろう。政府はレジオン・ドヌール勲章を贈って彼をひきとめようとしたが、ジャン・バルネは軍籍を離れ、民間の病院医となった。彼は決してベトナム人を殺さなかった。第二次大戦中もパルチザンの衛生兵として、祖国のために尽力した。しかし、みずからの手でドイツ兵を殺傷したわけではない。このときは、友軍のため、同志のためにペニシリンを配布し、ドイツに降伏して、その傀儡になった時のフランスのヴィシー政権にさからって、傷ついた戦友たちの命を救ったのである。
 ハーバリストのモーリス・メッセゲは、南仏の一介の民間人にすぎなかったが、ナチスドイツの収容所に送られそうになったときに脱走し、パルチザンの一員となった。彼は自分の手に余るようなサイズの拳銃を与えられ、ドイツ兵を狙撃しようとしたが、ついにその引き金を引けなかったと告白している。
 
 医学により、民間の医術により、人を健康にしようとし、人間の命を救おうと心の底から思うものには、どんな理由があろうとも、人の命を奪うことなどできないのだ。
 この二人のことを考える私は、そう信じて疑わない。アロマテラピーを研究し、実践しているみなさんも、きっと同じ考えをお持ちのことと思う。 
 
なお、民間医となったジャン・バルネ博士は、現代薬学の花形とされた抗生物質剤の使用に疑問を持つようになり「よほど差し迫った状況でないかぎり、抗生物質剤を使わないように」と主張した。
博士は1995年に死去するまで、このことを強く訴え続けた。「植物=芳香療法」は博士にとって抗生物質療法に対する代案の一つだったのである。
母を抗生物質クロラムフェニコールの副作用で失った私の心に、博士のこの言葉は重く響いた。

そして、博士はアロマテラピーを復権させ、これを広めようと本を書いたり、民間の病院で密かに実践したりしたことも付け加えておきたい。
精神病院を含む各種の病院でこれを実践しながら、フランス伝統の植物療法を質的にブレイクスルーさせるものとして、つまりアトミックな植物療法としてのアロマテラピーの体系を構築していったのである。
博士が、雑誌記者のインタビューに答えて、ルネ=モーリス・ガットフォセのいう「アロマテラピー」からはその名前を除いては一切影響を受けていない、と言っているのはそのことを意味しているのだろう。
これが、バルネ博士をアロマテラピーの中興の祖と私が呼ぶゆえんである。

2014年6月10日火曜日

〔コラム〕アロマテラピーのためのフランス語講座のおすすめ

 香りの王国は、なんといってもフランスですね。アロマテラピーがフランスで生まれたのも、当然だったのです。
 
 そこで、みなさんに、私から提案があります。
 アロマテラピーで使われるフランス語を勉強なさいませんか。
 例えば、フランス語ではラベンダーのことを「lavande(ラヴァンド)」、ローズマリーを「romarin(ロマラン)」と言います。ラベンダーは「洗う」というラテン語に由来するということ、ローズマリーのフランス名の一部「marin」が「海の」を意味することなど、このような知識をいろいろ広げるのはとても楽しいことです。 
 
 アロマテラピーで使用される精油・エッセンスの原料植物の名前や分析表に出てくる用語などを正しく覚え、それを美しく正確に発音することを勉強しましょう。また、アロマテラピーに関連する技術・人物名などをフランスではどう言っているかを知れば、あなたの愛する香りの世界、アロマの宇宙はいちだんとひろがるに違いありません。
アロマテラピーを人に教えている方も、フランス語の名前の意味や、発音の方法を通して、歴史や人名などの知識が立体的に結びついていると、教える場合にも役に立つことでしょう。
  
  ******************************
 
 私は、あなたのために、その楽しい講座を開催したいと思います。
 興味のある方は、下記にぜひご連絡下さい。詳しいことは、ご相談いたしましょう。
 
高山林太郎への直通電話
 携帯電話 080−5424−2837 
 固定電話 042−482−1179

2014年5月28日水曜日

『ジャン・バルネ博士の植物=芳香療法』はどうして復刊されないできたのか

高山林太郎
 
 現代アロマテラピーの医学的・科学的な基盤を築いた偉人といえば、フランスのジャン・バルネ医学博士をまっさきにあげる人は、日本でもヨーロッパでもたくさんいるでしょう。
 
 博士の名著 ”AROMATHÉRAPIE - Traitement des maladies par les essences de plantes” 邦訳題名『ジャン・バルネ博士の植物=芳香療法』は、私が30年以上もむかし、苦心に苦心を重ねて翻訳した、私にとって記念碑的な書物です。しかし、アロマテラピーのアの字も見たことのない日本人にこの療法を初めて紹介するには、フランスで10回以上も版を重ねた一般人向けの本とはいえ、むずかしすぎました。
 
 そこで、いろいろな問題点はあったものの、英国人、ロバート・ティスランドの ”The Art of Aromatherapy” (邦訳題名『アロマテラピー―〈芳香療法〉の理論と実際』)を最初に訳出・刊行することで、いままで日本人のほとんどが知らなかったアロマテラピーという、芳香植物の精油を利用する新しい自然療法を知らせるよすがにしようと考えたのです。
 
 「生活が苦しかったから、ロバートの著書を訳したんだろう」などという、ゲスな人間の批判もインターネットで見ました。アホな人間は、自分の下劣な考えを、こともあろうにこの私も同じように抱くとしか思えないのでしょう。思えば、気の毒な人です。自分がバカだからといって、世の中の人間すべてが自分と同じレベルのバカだなどとしか考えられない人間は、ホモ・サピエンス(人間)の名に値しません。反論する気もおきません。私はイヌ・ネコなみの動物とけんかするほど、悪趣味ではありません。
 
 私は当時、フランスからハーブを輸入する会社の研究開発部長を勤めていて、それなりに高給を食(は)んでいました。このころの私は、フランス・英国そのほかのヨーロッパ諸国のハーブ類の薬効の研究に、日夜いそしんでいました。当時、ハーブというものに興味を寄せる女性たちが多くなりはじめていました。でも、当時、西洋の薬用植物の薬理的な効果については、私ほど知識を持っていた人間は、たぶんほかにあまりいなかったと思います。
 
 さて、ある日のこと、某出版社の社長が「アロマテラピー」という新たなヨーロッパ生まれの植物療法の一種を紹介したいのだが、翻訳して頂けまいか、といって十数冊の英仏の原書を私のもとにもってきて、相談に乗ってほしいと依頼しました。私は、びっくりしました。私自身、アロマテラピーを新しい植物療法として捉え、これに深い興味を寄せて、すでにジャン・バルネ博士の前述の書物を訳し、知り合いの医師たちに読んでもらい、感想を尋ねてまわっていたのですから。
 
 もし、このとき私がジャン・バルネ博士の本の訳稿を、この出版社社長に「これを刊行して下さい」と頼んでいたらどうだったでしょうか。たぶん、全国で100冊も売れなかったでしょう。そして、今日のようにイヌ・ネコなみの動物まで「アロマテラピー」などと口にする世の中になっていなかったにちがいありません。
 でも、このときは何をおいてもまず、「アロマテラピー(芳香療法)」ということばそのものを知る人間を、一人でも増やすことが、なんとしても必要でした。私のこのときの決断が正しかったのか否かは、歴史が決めてくれるでしょう。いまの私は「功罪相半ばする」と考えています。
 
 ロバート・ティスランドの本は、ジャン・バルネ博士の「科学的な精神を逸脱しない」著書をネタ本にして、英国の大衆に俗うけするように、ホメオパシー・バッチ療法・占星術などをそこにおもしろおかしくまぶし、古代や中近世などのヨーロッパの医療をめぐる歴史をいわば講談調にまくしたて、オカルト的に中国伝統医学までとりあげて人を煙に巻き、根拠も明らかにせず「精油のレシピ」集などを並べました。
 ロバート・ティスランドは、バルネ博士の英訳本(英国ではほとんど売れませんでした)をパクって、その科学性などすっかり無視したわけですが、そのかいあってか(?)、英国の低俗な雑誌の編集者たちがこの本をおもしろがり、このネタをうまく使って、自分たちの雑誌の読者の関心を呼んで雑誌の販売部数をぐんと増大させようと企て、競ってロバートのこの本を話題にとりあげ、aromatherapy(アロマセラピー)という新しい言葉を英国全土にはやらせました。
 
 ジャン・バルネ博士は何度か英国を訪れていますが、博士はロバートのこの本を見て、すぐにこれが自分の本を換骨奪胎(かんこつだったい)し、自分が提唱した科学的アロマテラピーをふみにじったものだと知って憤慨し、正しくアロマテラピーが伝わらなかったことを悲しみました。せっかく訪英したバルネ博士に、ロバートは全く会おうともしませんでした。
 ロバートがフランス語など話せも読めもしない無教養な人間だったこともあるでしょうが、やはり博士に会わせる顔がなく、博士と通訳を介しても内容のある話ひとつ交わせないヒッピー崩れの、およそ知性において欠けた男だったからです(金にあかせてブレーンやゴーストライターなどを何人か使って、もっともらしい本を出していたのだと、故・藤田忠男博士は言っていました)。
 
 しかし、ロバート・ティスランドの俗流書を先に出版したために、日本でも「アロマテラピー」、「アロマセラピー」ということばが流行しはじめ、私がその出版社から出したいろいろなアロマテラピー書がひろく売れはじめました。
 
 そして、ようやくジャン・バルネ博士の前述の本が出せるようになりました。日本の人びとも、ロバートの著書よりも程度の高いアロマテラピーの書物を求めるようになったからです。
 
 この本は、同社で3000部ほど出しました。まもなく売り切れました。当然、版を重ねるべきなのに、同社の編集長は、訳者として当然の権利として私が受けとった数冊の翻訳書まで返せと要求してきました。もちろん、私は断りました。
 
 すると、この出版社の編集長と社長とは、見本に残しておいたバルネ博士の著書をコピー機で何百部か何千部かわかりませんが、まるまる一冊分コピーして、この定価7500円の本をなんとワンセット一万円でどんどん注文者に売ったのです。どれほどもうけたのだろうか。これは当然帳簿上には記載できない数字です。脱税の罪も立派に成立しますね。でもウラ帳簿などは今ではとっくに処分してしまったはずです。
 
 これは、日本とフランスとの両方の著作権管理会社にたいするひどい契約違反ですし、日本語版の翻訳・著作権者である私にたいする手ひどい背信行為です(私は、80年代から90年代にかけて私の本でここの社長・社員を食わせていたのです)。編集長がノータリンだったので、コピーしてこの本をどんどん販売していることをうっかり口走ってしまって、私にことの次第がばれてしまいました。コピーじゃダメだ、本をくれという注文者がいたので、私に渡した本を返せなどと言ってきたわけです。ある人が言っていましたが、コピーしたこの博士の本に、無断転載複写禁止と印刷されていたらお笑いですね。
 
 これで、この出版社は大儲けしかたどうかわかりませんが、コピーを買った人間が日仏両方の仲介業者にこの事実を知らせ、結果として、ジャン・バルネ博士もこの同社の悪事を知ることになり、博士は激怒して、二度と日本人などに自分の著書を訳させるものか、と身近な人びとに言っていたそうです。
悪事千里を走るとは、まさにこのことでしょう。
 
 私の厳重な抗議など、まったく無視してコピー商売を続けたこんな会社の幹部たちは、出版人の風上にもおけないヤクザ・泥棒同然の人間でなくてなんでしょう。なるほど、この犯罪行為はもう時効です。いまさらなにをいっても、顔に小便をかけられたカエルのようにケロリとして、この悪党どもはしらじらしい態度をとることは容易に想像できます。
 でも、このブログをごらんになった方々は、日本のアロマテラピーを推進させてきたと称する出版社が、倫理とか道徳とかといったものをまるで忘れたどんなに汚ない会社かがよくおわかりかと思います
 
 この犯罪には、上述のように時効の壁があって、いまさらどうにもなりますまい。しかし、国際的な道義を踏みにじり、日本と日本人の顔とに泥を塗った同社のこの悪行は、決して決して忘れないで下さい。
 
 私が無念でならないのは、この私が、翻訳者であるこの私までが、この悪事に加担したと、私の尊敬してやまないジャン・バルネ博士に思われてしまったこと(訳者なのですから当然です)、そして博士に、私が同社に厳重に抗議して、この悪党どもが不当に儲けた不浄の金などビタ一文も手にしなかったと弁明する機会もないまま、あの世に行かれてしまったことに尽きます。
 
 
 しかし、パンドラの箱に希望は残りました。
 バルネ博士の家族関係はかなり複雑で、博士の死後数年して博士夫人も死去しましたが、その有形無形の遺産の相続問題が穏便に片付いたら、話はまた変ってくるでしょう。ジャン・バルネ博士のこの不朽の名著の復刊を願ってやまない方がたは、その日をぜひとも楽しみにお待ち下さい。 

2014年4月30日水曜日

出版関係の皆さまへ、高山林太郎からのお願い【『フランス・アロマテラピー大全』の復刊について】

いま、本もののアロマテラピー学習書・研究書を望む人びとが渇望している本を刊行して下さる志の高い出版社を、ここに公募いたします。この名著をしのぐ書物は、あと10年はまず出ないでしょう。
 
その名著とは、
 
 
 ロジェ・ジョロア/編著
 ダニエル・ペノエル医学博士/医学監修
 ピエール・フランコム/科学監修
 
 『フランス・アロマテラピー大全 上・中・下巻(いずれも絶版)
 (原題:l’ aromathérapie exactement)
 
 
 
です。
 
私は、この世界最高峰のフランスのアロマテラピー学習書・研究書の訳出に、文字通り心血をそそぎました。多くの真に科学的思考ができる方がたから、「もはや、あと四半世紀は、この書を凌駕(りょうが)するものは、全世界的に刊行されないだろう」とさえ評された「幻の書」がこれです。
なお、この本はフランス語の原書から他国語に訳された世界唯一の本です。
 
この書物を復刊してほしい、再刊してほしいとお望みの方がたが、私に絶えず強くその要望をお寄せになっています(この私の2013年5月21日からスタートしたブログの閲覧数を参考になさって下さい)。
 
無理もありません。
現在、書店の棚に並んでいる「アロマテラピー関連書」と称する本は、ほとんどおしなべて俗悪・低劣・愚劣なものばかりです。
手にとって見る値打ちなど、まるでない消耗品、ないし文化的産物としての資格など完全に欠落した雑貨品にすぎません。
 
そうした書籍の出版社は、失礼ながら、いかがわしい日本アロマ○×協会などの「インストラクター」だの「アドバイザー」だのという、国家資格でも何でもない、はっきり言って何の役にも立たない資格を試験を受けさせて売りつけたあげく、定期的に高いお金をその「協会」に上納しなければ、遠慮なくその資格すら奪い取ってしまう、悪らつなアロマ協会の「資格」商売に奉仕するだけの、およそ出版社としての、文化の向上、進展に資することをめざす本来の使命を忘れた存在と言わざるを得ません。
 
出版人としてのプライドを、志をお持ちの方がたは、そんな「受験参考書」などを刊行なさっても、たちまち春の淡雪と消え去り、日本の文化史にその著書も貴社の名も一切残らないことは、申すまでもなく十二分にご承知のことと拝察いたします。
 
このアロマテラピーの世界的名著は、志が本当に高い出版社さまがお望みなら、いますぐにでも刊行できます。私は、訳者として責任をもって、原著者たちとも相談しながら、あらんかぎりのご協力をさせて頂きます。
 
 先に刊行した本書の上・中・下巻の3巻をまとめて1巻にし、手にとりやすい価格帯にしたいという構想もあります。
ぜひともご相談下さい。 
 
ご興味をお寄せの出版関係の方がたは、下記に早々にご連絡頂きとう存じます。
高山林太郎
    (携帯電話)080-5424-2837
または (固定電話)042-482-1179
 

2014年4月23日水曜日

ジャスミン | アブソリュートを買うときには注意して!⑫

ジャスミン(Jasminum officinale var. grandiflorum、原種は J. officinale)アブソリュート
 
このモクセイ科の常緑小低木ジャスミンは、オオバナソケイ(素馨)といわれ、ソケイ属の植物である(カタロニアジャスミン、イタリアジャスミンとも呼ばれる)。ジャスミンの原種であるJ. officinale(ポエッツジャスミン〔poet’s jasmine〕、コモンホワイトジャスミン〔common white jasmine〕と俗称される)は厳密にはこれとは別物であるが、香りにほとんど違いがなく前者とだいたい同一視され、香料用にされる。
前者(J. officinale var. grandiflorum)のほうは、花の直径が最大3.5cmにもなる。原種のJ. officinaleは花の直径が最大2.5cmのため、効率よく芳香成分をとるために前者のほうがひろく栽培される
中国産のジャスミンは素馨(そけい)で、茉莉(マーリー)は、その一部に属する。その学名は、J. sambac。茉莉花(マーリーホワ)は中国人に愛される花の一つで、このつぼみを茶に入れた茉莉花茶は美味である。日本で市販されているペットボトル入りのジャスミン茶は合成香料しか入っていないニセモノだ。
 
茉莉は、学問的にはアラビアジャスミンという。中国民謡『茉莉花』は古来愛唱されてきた。アグネス・チャンのこの歌は、一度聴く値打ちがある(関係ないか)。
 
花の香りの女王をバラとすれば、ジャスミンはさしずめ花香の王だろう。ジャスミンの原産地は、アフリカ・アジアの亜熱帯・熱帯地方で、その種類は300種を数える。
白や黄などの小さい花を咲かせるものがあり、そのうちひときわ強い芳香を放つ種類がある。そこで、これが香水とか茶の付香などに利用される。
 
ジャスミンの花にはいくつもの香気成分が含まれる。とくにジャスミンの特徴的な香りのもととなるcis-ジャスモンはいまだに工業的に生産する方法が確立されていないので、これを使った香料はきわめて高価である。
これがジャスミンのアブソリュートがアロマテラピーではほとんど使われていない理由の一つである。
しかし、これには後述するもっと重大なわけがある。
 
このジャスミンの産地の一つ、エジプトでは午前3時ごろから10歳未満の少年たちが袋を背負って、午前9時ごろまでの間に花を一つ一つ手摘みして袋に入れる。腕のいい子は、その時間で7万個の花を摘む。そして、その賃金は極めて低い。モロッコ、インドなどでも同様である。花はバラなどと違って、ごく小さい。私はこの花を見ると日本のテイカカズラを連想する。
 
花700kgから、ようやく1kgのアブソリュートが抽出される。花の数にすると数百万個になるだろう。高価なわけだ。明け方に黙々と摘花する少年たちを思うと、私は何か悲しみ・怒りをおしとどめることができない。もちろん、香りのもつ文化史的な意味は十分わかっているつもりではある私だが。
そうして集めた花は、アセトン、ヘキサン、四塩化炭素、石油エーテル、ベンゼンといった、発ガン性有機溶剤で処理してコンクリートというもの(花のワックスと芳香成分の混合体)の形態にして、これをエチルアルコールで摂氏78度ほどで蒸留すると、アブソリュートが得られる。
このアブソリュートを使った有名な高級香水が、ジャン・パトゥー社の”JOY”である。
 
茉莉花は、華南・台湾・インドネシアなどで栽培され、早朝つぼみの状態のときに採取され、烏龍茶に着香するために利用される。
 
むかしは、ジャスミンの花を獣脂と植物油とに混ぜたものに根気よく何度も貼り付けて、その芳香成分を移して、それをエタノールで蒸留していたので問題はなかったが、現在では、これは手間と人件費がかかりすぎるので、このメソッドを採用している会社はいまは世界にたった1社しかないと聞く。この方法をアンフルラージュと呼ぶ。これは冷浸法と訳される。
 
したがって、有機溶剤抽出法が主流になった現在、アブソリュートは、バラなどとともにジャスミンもあまりアロマテラピーでは用いられない。最終製品に発ガン性物質が残留するからだ。マギー・ティスランドなどは紅茶にジャスミンアブソリュートを入れて飲むことを賞揚しているが、そうした危険性をどの程度認識しているのか、不安である(香水のように、ほんの少し、それもタマにしか体表につけないものなら問題にはならないが)。
ジャン・バルネ博士は、冗談半分だろうが、ジャスミンを内用すると、糞便がジャスミン香を発するようになると書いている。
 
 
主要成分(%で示す)
 ベンジルベンゾエート 11.5
 ベンジルアセテート  25.8
 リナロール      4.6
 インドール      3.7
 オイゲノール      2.6
 cis-ジャスモン      2.4
 ファルネセン     2.0
 ファイトール類    27.9
 
・偽和の問題
 真正のジャスミンアブソリュートは、なんといっても高いので、多くの成分が偽造される。偽和はインドール(糞便臭のもとの成分。自分のウンチから採ればよさそうだが、やっぱり合成する)、合成シンナミックアルデヒド、イランイランのカスみたいな留分などを用いて偽和する。合成ジャスミンは、しつこい、いやらしい甘さがして、文字どおり安っぽい香りがあり、すぐにわかる。わからない人は香水を熟知している人に尋ねて、そんな成分で作った香水をつけるのは控えて欲しい。他人の迷惑になるから。
 
・毒性
 LD50値
 ラットで>5g/kg(経口)、ウサギで>5g/kg(経皮)
 光毒性は報告例はない。
 
・効果
 薬理学的作用 生体から摘出したモルモットの回腸において、痙攣惹起作用を示した。
 殺菌作用 報告されていない。
 抗真菌作用 報告されていない。
 その他の作用 CNV(随伴性陰性変動)によって、刺激作用があることがわかっている。
 
なお、パトリシア・デービスによれば、ジャスミンアブソリュートには子宮強壮作用があり、月経痛を鎮める力がある。また、出産時にこれを腹部にマッサージすることで、苦痛を軽減でき、収縮を強め、出産を助け、胎盤の排出を促すとともに、産後の回復を助けるという。またこれらには抗うつ作用があるために「マタニティー・ブルー」を好転させるのにも有効だそうだ。
ジャスミンはまた、ことに男性に催淫作用を示す。これはジャスミンに不安や恐れ、うつといった性欲を抑制するファクターを軽減ないし解消する力があるためである。
 
・思い出
 ① どうでもよいことだが、東京・飯田橋にインドカレーでけっこう有名な店があった(いまはどうか知らないが)。その店名は「インドール」といった。私は好奇心が旺盛なので、一度寄ろうと思いながら果たせずにいる。実は、このインドールというのはインド中部の都市名Indoreからとったもので、ジャスミンの成分indoleとは無関係である。
 
 ② また日本アロマ○○協会の講演で、ある学者とおぼしき男が、ジャスミンをわざわざ水蒸気蒸留した結果を大まじめで報告した。私は思わず、何でそんなことをするのか尋ねた。すると、隣席のこれまたウスラバカづらの学者らしき男が「実験的にトクベツに行ったんですよ!」と私を叱った。なるほど、先人の行ったことでアタリマエとされているものでも、何度でも疑問をもって再現実験・追試すること自体は決して悪くはない。科学的精神のあらわれである。
 
しかし、16世紀以降、無数の人びとがジャスミンの花を水蒸気蒸留すれば多数の芳香形成成分が破壊され分解されて、香りがひどく劣化してしまうことを認めたからこそアンフルラージュとか有機溶剤抽出法とかを採用しているのだし、また当然20世紀生まれのアロマテラピーのための精油としても効力が大幅に落ちるであろうことは誰しもわかることだ。経験則というべきか。
こういう先生方は、ニュートンの万有引力の法則もついでに再試験してみられるとよい。
東京タワーか、最近できたスカイツリーなどの高いところから空中に飛び出してみて、地球に引力があるかどうか、我が身をもってシッカリ追試なさることを心からお勧めする。科学者の鑑と讃える奇特な人もいるかもしれない。
故・藤田忠男博士にこのことをお話ししたら、呵々大笑なさるはずだ。
そして、「だから、あの協会はダメだと見切りをつけて、会員たちが私のところに話を聞きに来るんですよ」とおっしゃることだろう。
 
付け加えておくが、この講演でジャスミン「精油」のほうが、アブソリュートよりも薬理学的に効果が高かったなどという発表など何一つなされなかった。「あたりまえすぎることをいうな」と識者からドヤされそうだ。世の中にはとかく学者を名乗るバカ者が多すぎる。高校の入試問題をこんなやつらに課してみれば、月給泥棒の化けの皮がハガレるだろう。そういうことをしない文科省は、そんな連中と共犯関係にある、なれ合い関係を持っているとみられてもしかたあるまい。 

2014年4月2日水曜日

〔緊急手記〕藤田忠男博士を悼む

緊急手記 藤田忠男博士を悼む
 
髙山林太郎 
 
 アロマテラピー界の重鎮、藤田忠男博士が逝去された。私のアロマテラピーをご理解頂き、それをバックアップして下さった方のおひとりであっただけに、私の悲しみはひとしお深い。
 
 専門の応用化学に裏打ちされた藤田先生のアロマテラピー理論には、まさに力があった。インパクトがあった。そして何よりも、真実を追求しようとする強い情熱があった。
 
 したがってというべきか、正しいアロマテラピー界に仇なす輩(やから)から不当な攻撃をお受けになられたことが再三あった。藤田先生と私とが力を協(あわ)せることが、この業界の悪党どもにとって悪夢だったのだろう。出版社の社長・会長を含むこの連中が邪魔したせいで、私はとうとう生前の博士にお目にかかれなかった。
 しかし、藤田博士のご無念の死を、私は決して無駄にはしないつもりでいる。先生のお声は、いまでも耳に残って消えない。
 
 藤田先生に、私の命にかけてお誓い申し上げます。
 博士のご遺志は、非力ではありますが、この私が、また私と志を同じうするものがひきつぎ、かならず先生が夢みられた世界の実現をめざして、力いっぱい努めてまいります。
 
 いまはどうか、元素に戻られて、安らかにお眠り下さいますように。 

2014年3月13日木曜日

蜂窩織炎(ほうかしきえん)の思い出と「セルライト」とについて〔コラム〕

蜂窩織炎(ほうかしきえん)の思い出と「セルライト」とについて
 
私が、アロマテラピー などというものに関心を寄せるようになる以前のことだ。
私は自宅の風呂場で転んで、左足の甲をしたたか打ってしまった。もちろん痛かった。
しかし、その痛みはほどなく鎮まり、内出血も大したことがなくてすみ、なに不自由なく歩けた。
 
ところが、数日して困ったことがおきた。打撲した左足の甲がプックリふくれあがってしまった。痛みはべつにない。でも、靴が履けなくなったのである。
私は会社勤めをしていたので、やむなくサンダル履きで出勤した。だが、左足の甲のふくれ(炎症など一切伴わなかったので、「腫脹」とはあえて呼ばずにおこう)はますますひどくなり、どうしても医者にみてもらわなくてはならないはめになった。なにしろ、左足の甲の上に大きなマンジュウを載せたようになってしまったのだから。
 
そこで、私は勤め先の会社に近い東京・御茶の水の順天堂医院に行って、診察してもらった。その順天堂医院の医師は「ああ、これは左足の筋肉組織に水がたまったんだな」と、こともなげに言って、注射器の針を、皮膚にアルコール消毒もしないままブッスリと刺しこみ、その水を抜いた。
 
だがしかしだ。私たちの皮膚には、体全体にわたって、連鎖球菌やブドウ球菌などの細菌が常在している。この細菌は、私たちが一度沐浴して石けんで体をていねいに洗い流せば、ほとんどすべて落ちてしまうが、12時間もすれば、またもとどおり増殖して体をおおいつくす。
この細菌どもは、人間の皮脂などを栄養にして生きていて、べつに私たちに悪さはしない。それどころか、私たちの皮膚のpHを健康な弱酸性に保ち、悪質な細菌の侵入から人体を守ってくれている。
 
でも、注射などを行う際には、この常在菌も体内に入れては危険だ。だから、まともな医師・看護師なら注射針を挿入するのに先立って、針の入る付近の皮膚をアルコールで消毒するのがふつうである。
 
ところが、この順天堂医院の医師は、こんな私などに消毒措置を講じるなんて、天に順(したが)う者にふさわしくないと思ったのだろう。そこで、皮膚の常在菌を足の甲の筋肉の非常に深い部分に埋めこんだのですよ。
 
この常在菌は「悪さはしない」とさっき言ったけれども、それは皮膚の表面であれば、ということで、それを足の結合組織の深部に入れられてはたまらない。常在菌は快適な環境を与えられ、どっと大繁殖する。
私は、すぐに左足全体が猛烈に腫れあがって痛みだし、悪寒(おかん)がしはじめ、高熱に襲われた。体が戦慄(せんりつ)した。
私は家の中でも立つことがまったくできなくなり、小便もシビンを使わなければならなかった。患部には膿瘍(のうよう)が形成された。すぐに、患部を切開して排膿する必要がある。ほうっておけば、敗血症をおこしかねない。
みなさん、これが英語でcellulitis(セリュライティス)、日本語で蜂窩織炎、あるいは蜂巣炎、蜂巣織炎などという症状なんですよ。これを、この順天堂医院の医師は、誰の目にも明々白々な医療過誤によっておこしたわけだ。
 
そこで、この医師は私に手術をせざるを得なかった。手術のあと、私は入院しなければならなくなった。でも、この順天堂医院は満床で、私などを入院させる余裕などないと、いけしゃあしゃあとその医師は言った。
そして、この順天堂医院の医師は恩着せがましく、「オレの知っている病院を紹介してやろう」とおっしゃった。
そして、東京のはずれの淋しいいなかの病院で、私は2週間近く入院するハメになった。松葉杖というものを生まれてはじめて使ってトイレに通わなければならなかった。痛くて痛くてつらかったね。
 
で、まあやっと退院する日が来て、もう一度順天堂医院に行った私は、私をこんな目にあわせた医師に再会した。
ところがだ。この医師、ひとことも私にあやまらない。入院料も手術代も薬代も、さあすぐ払えというのですよ。恐れ入ったね、このずうずうしさ。医者になるとこんな言行もきっと楽しくなってくるのだろう。
 
裁判に訴えても、とても私には勝ちめはない。原告側の証人となって、その医師の行為は明らかな医療過誤だと主張してくれる医師は、日本には一人もいないのだ。みんなスネにキズもつ身だからとしか思えませんよ、私には。医学的知識のない弁護士なんか、屁のツッパリにもならない。
私は泣く泣く医療費を払った(これが順天堂医院の創立者の医療理念なんだろう)。そして、せめて、保険会社に出す診断書を書いて下さいといったら、いやいやそうにその順天堂医院の医師は診断書だけは書いた。自分の過誤だなどとは一切記さない診断書だ。しかも、その診断書代もバッチリ取られましたよ。みなさん、医者になっておけば、何をしたって、もうかるのだから、医者ほどステキな商売はない。
 
それはともかく、このcellulitis(セリュライティス)という病名をよく見てほしい。cellulはラテン語で小室、房すなわち細胞の、ということで、また、”tis”という語尾は、ギリシャ語由来で「○○炎」の炎という意味である。
ところで、英国や米国などのエステ業界・健康食品業界でも、一時cellulitisなるコトバがはやった。
これは、中年女性の皮下脂肪組織に老廃物や水分が滞留した状態(とくに尻、太もも、腹部)だとされた。相撲取りの体の女性版と思えばよい。しかも、これは男性には絶対に出ない「症状」だという。
 
私も、英米のアロマテラピー書を訳しはじめた当初、ロバート・ティスランドの本も含めて、やたらにこのことばにぶつかって、「ヘンだなあ」と思った。この症状の発現には女性ホルモンがからんでいるとされていたからだ。だが、私はれっきとした男性だ。 
 
当然、英米の医学界からは「バカなことをいうな。それはcellulitisではない。ただのデブの美称じゃないか!」と猛反発がおこった。
サァ、エステ業界の連中は困りました。でも、どこの国にもアタマの良い、というか悪賢い奴らはいるものだ。このcellulitisは、フランス語ではcellulite(セリュリット)という。
米国のあるエステサロンのオーナーが、「そうだ。これでいこう!」と思いついた。このフランス語を借用して、これをセルライトなどという英語ともフランス語ともつかぬヘンチクリンな発音でごまかして読んで、この女性のホルモンがらみの脂肪太りを表現したのだ。
 
そう言われては、医師たちも苦々しく思いながらも、ホコを収めざるを得なかった。
フランスでは、この女性の太ももに出る「症状」をとくにculotte de cheval(キュロット・ドゥ・シュヴァル〔乗馬ズボン〕)と俗に表現している。
 
医学界では、これが果たして本当に医療を必要とする病的症状かどうか、いまだに決着していない。
エステ業界は、健康食品業界とならんで、怪しげな部分がある世界だ、とつくづく思わされる例の一つである。 

2014年2月13日木曜日

髙山林太郎 緊急手記「ジャン・バルネ博士はロバート・ティスランドをどう見ていたか」

ジャン・バルネ博士は
  ロバート・ティスランドをどう見ていたか

 
髙山林太郎
 

 『アトミックな植物療法』としてのアロマテラピー

 
 ジャン・バルネ博士は、アロマテラピーを「アトミックな植物療法」と呼び、芳香植物のエッセンスを利用するという特殊な形態をとるものではあっても、これを植物療法のカテゴリーに入れて、その成分の作用機序を「あくまで科学的に」解明しようと努力した。
 しかし、それを狡猾にパクり、換骨奪胎(かんこつだったい)した英国のロバート・ティスランドは、バルネ博士の科学的精神を虐殺し、ホメオパシーだのバッチのフラワーレメディーだの星占いだのという、およそ科学性のカケラもないものにすりかえ、英米人の、また日本人のアロマテラピーに対する認識を強引におしゆがめてしまった。人びとのなかには、アロマテラピーをホメオパシー同様に「いかがわしいもの」とみるものが続出したのも当然だ。
 私は、これまでジャン・バルネ博士のロバート・ティスランドに対する思いをよく知らなかった。
 しかし、最近、晩年の博士のことをよく知っている人物からくわしい情報を得て、ただの少しばかり文才のあるチンピラヒッピーだとロバート・ティスランドのことを考えていた私は、自分の愚かさにあきれ果てている。
 
 

 両者を翻訳し、日本に広めた人間として


 ロバート・ティスランドは、こざかしい悪党だったのだ。おのれの金儲けのために、バルネ博士の科学的精神を裏切り、魂を悪魔に売ったのである。そして、英国のアロマテラピーの元祖づらをして、恬然(てんぜん)として恥を知らない下劣なさもしい男だった。
 
 そして、それを訳した私も、結果的にこの悪党の片棒をかつがされてしまった。二十九年前の、私がこの英国で歪曲された療法、あるいはそこに盛りこまれたホメオパシーそのほかの迷信性をよく知らない時点だったとはいえ、そんなことはいまさら何の弁解にもならない。私は自分に一切、免罪符などを与えるつもりはない。
 ジャン・バルネ博士は、自分が説きつづけた科学的アロマテラピーが、英国の教養もない迷信家どもに、金儲けに目がくらんだ連中に土足で踏みにじられ、引き裂かれるのを見て、どれほど悲しみ、心を傷つけられ、かつ怒っていたことか。
この両人の著書をそれぞれ英語・フランス語から訳した私には、誰よりも博士の悲しみと憤怒とが、心臓をえぐられるような痛みとともに、よくよくわかる。
 
 私は、フランスから泳いでも渡れる英国で訳出され刊行されたバルネ博士の原書がほとんど売れず、まったく人びとの話題にもならなかったことを、よく知っている。
 私は、ロバート・ティスランドの“The Art of Aromatherapy 『アロマテラピー:《芳香療法》の理論と実際』”を翻訳し、フレグランスジャーナル社から出す何年も前に、ジャン・バルネ博士の“AROMATHERAPIE : Traitement des maladies par les essences de plantes :ジャン・バルネ博士の植物芳香療法”を試訳していた。
 しかし、私がアロマテラピー書を出したフレグランスジャーナル社は、東販、日販(注:いずれも各出版社の出した本を一般の書店に卸す大手会社)といった取次店に口座をもたず、ダイレクトメールで新刊を人びとに紹介するしかない小出版社である。ここに、書店では売れない、また一般人にはおいそれと販売できないとわかっている、程度の高いバルネ博士の本を、慈善事業だと思って日本最初のアロマテラピー紹介書として刊行してほしいなどと、私にはどうしても同社の社長に頼むことはできなかった。
 そして、結果として、このホメオパシーだのバッチのフラワーエッセンスだの、はては占星術だのというものまでブチこんだ「英国式アロマテラピー」なるインチキだらけのアロマテラピーを日本中に蔓延させてしまい、各種のアロマテラピー協会などという金儲けばかりをめざしているとしか思えない諸団体を雨後のタケノコさながらに生えさせてしまった責任を、私がとらざるを得なくなったと考えている。
 

 もう一度認識していただきたいバルネ博士の植物芳香療法


 全国のみなさんから、こざかしい悪党、ロバート・ティスランドの「共犯者」として、私は弾劾され、罵倒されることを、ここに強く求める。そして、みなさんに深くお詫びするとともに、私は死ぬまでに、ジャン・バルネ博士の墓前にぬかずいて、心の底から許しを乞うつもりでいる。
 ろくに医学など知らぬルネ=モーリス・ガットフォセの着想した「アロマテラピー」を、懸命に医学としてのレールの上に、きちんとのせたジャン・バルネ博士の晩年の心情を察すると、私の胸は後悔の念で張り裂けんばかりに痛みに痛む。
 現代のアロマテラピーは、まさにこのジャン・バルネ博士からスタートした。ジャン・バルネ博士の著書『ジャン・バルネ博士の植物芳香療法』が絶版になって久しい今、このことを、ぜひ再認識して頂きたく、この一文を草した次第である。 

2013年10月29日火曜日

これまでの『R林太郎語録』をふり返って

 私は、この自分の名をおこがましくもつけた「語録」を、香りについて、アロマテラピーについて、思いつくままのこと、思い出すままのことを、順不同に書きつらねてきた。アロマテラピーという歴史の浅い自然療法を、日本に最初に体系的に紹介したものとして、少しでも多くの方がたに、つれづれなるままに記した随想のかたちで真実を、アロマテラピーの真実を、 知っていただくことを願ったからである。

 2013年の5月1日に、この私は『誰も言わなかったアロマテラピーの本質』という新しい本を出して、いまのアロマテラピーの、ことに日本で行われているアロマテラピーの、さまざまな問題点をとりあげて論じた。しかし、いろいろな方面からの悪らつな妨害によって、この本は幻となってしまった。

 でも、アマゾンとか楽天とかで、この本の一部が売られると、あっという間に売り切れた。この新刊をお読み下さったアロマテラピーの権威である、藤田忠男博士は、私には身に余る賛辞をお寄せ下さった。そして、「高山氏のこの本は、高度な文化批評である」とまで言って下さった。これにより、この新刊にたいしてケチをつけたまことにIQのお低い方がた(誰かはほぼわかっている)の罵詈雑言(ばりぞうごん)は、すべてケシ飛んでしまった。藤田先生のお考えは以下の原文もあわせてお読み頂きたい。

〔高山林太郎氏の著作の高度な文化批評〕
http://ameblo.jp/forestwalking/entry-11814714388.html

 この「語録」は、すでに2万人以上の人びとが読んで下さっている。藤田忠男博士は、「日本のアロマテラピー業界は死に体」とまで極言しておられる。博士におことばを返すようで申しわけないが、私はアロマテラピーは、確かに一時の勢いは落ちたかも知れないと思うけれども(事実、英国のアロマラピー界の権威〔とは笑わせる〕、ロバート・ティスランドが日本にまで来て、泣き言をならべていた)、本当に正しく、科学的に、バッチのフラワーレメディーズだのホメオパシーだのといったインチキ自然療法と「アロマテラピー関係者」たちがキッパリ縁を絶って、少しずつでも、精油の作用機序を、その相乗作用を、クェンチング効果を明らかにしていき、かつ、英国人、フランス人、黒人などと、体質も皮膚の質も、そのほかの各種の点でも異なった部分が多々ある日本人の(厳密には同じ日本人といっても、古来からの青森人、アイヌ人、沖縄人などは、それぞれみんな体質などが異なる)ためのアロマテラピーを構築すれば、一時のお祭り騒ぎ的な、地に足がつかない、ミラージュ的、蜃気楼(しんきろう)的なアロマテラピーを、しっかりした根拠に基き、万人を納得させ得る新たなアロマテラピー(ネオアロマテラピーとでも命名しようか)に生まれ変らせることができる、と私は確信する。

 この文を読んでおられる、だいたいあなたほどの怜悧(れいり)で、ことばとしてダブるけれども知性と理性とを兼ね備えたお方が、会員から毎年毎年、金をまきあげる悪知恵しかない、もっともらしい日本アロマ○○協会などに加わっているのはどうしてか。そんな「協会」は公共的法人のくせに、7億から9億の金を金庫に唸らせ、協会の幹部どもは、「バカ会員めらが」と、ハラの中でセセラ笑っている。

 めざめて下さい、そこのあなた。あなたを、あなたの財布をいろいろなインチキアロマ協会が、インチキアロマスクールが、インチキアロマサロンがねらっている。オレオレ詐欺師どもよりタチが悪い奴らだ。あなたは認知症のご老体ではないはずだ。しかし、悪党は、さまざまな手を使って人の良い人間をダマして金をまきあげるスベを心得ている。

 どうか、くどいようだが、前記の悪人たちの餌食にならないように、ごくふつうの常識を働かせ、その悪人どもの口車に乗せられないように努めることだ。ダマされた人間も、またべつの人間をダマして金をもうけるのが、このネズミ講的組織のもっともタチの悪いところだ。しかもウブな若い女性などに「私は世間に役立つことをしているのだ」と信じこませてしまうオウム的洗脳組織だということを、心にシッカリ刻みこんでほしい。それが、私の心からの願いである。

2013年10月17日木曜日

人間の体臭について(続き)

現在では、体臭イコール悪いものという観念が横行している。むかしの人間(原人・旧人類といわれるきわめて古い時代の人種)は、確かに体臭がきわめて強かったと思う。

集団生活をしているハチ・アリなどは、巣の見張り番のハチ・アリなどが、敵の接近や攻撃などを仲間に知らせるために、独特の体臭を放って、スピーディーに群れの全員にその危険を知らせる。
すると、巣を防衛し、敵を撃退する役目の昆虫は、さっとその態勢をととのえ、必要とあらば敵を積極的に攻撃する。繁殖期などには、さらに敏活な行動をとる。

いまから20万年から2万数千年の間に、世界の各地で暮らしていた人種の一つに、ネアンデルタール人(Homo neandelthalensis)という旧人がいる。むろん、火を使い、旧石器を用いて、それなりの文化を築いていた。 仲間が死ねば埋葬し、花をそこに供えたりもした。

ネアンデルタール人は、身長が165cmぐらいなので、その男性にワイシャツを着せ、ネクタイを締めさせ、スーツの上下を着用させ、靴をはかせて公園のベンチにでも座らせたら、そばを通る人は、「こりゃ何人だろう。毛色の変わった人だなあ」と思うだけで、とくに気にもとめないのではないかと考えられる。

しかし、ネアンデルタール人は、現代の人間、すなわちホモ・サピエンス(Homo sapiens)と大きくちがったところがあったらしい。それは、頭蓋骨(とうがいこつ)の研究から、彼らはどうもコトバをうまく話せなかったようなのだ。と、いうことは、当然、脳の言語を司る分野が未発達だというわけであり、コトバを使用してモノを考える私たち現代人と世界の捉え方が相当異なっていたと思われる。

ネアンダルタール人も、数十人ないし、数百人のグループをつくって、狩などをして生活していたらしい。群のリーダーは、気候の変化、季節の移り変わりなどに応じて、各地を転々として、食物を求めて歩いた。しかし、ネアンデルタール人は、ついに弓矢を発明できなかった。かりに、群の誰かがそれをふと思いついても、唸り声のような声音では、その知恵を仲間全体にうまく伝えて、狩猟文化を飛躍的に発展させることができなかったのではないだろうか。


ここに登場してきたのが新人、すなわち現代人のホモ・サピエンスの先祖ではないか。
彼らは幼稚ながらコトバをいろいろと用い、弓矢をたくみにあやつって、さまざまな動物を狩ることができた。ネアンデルタール人は、どうなったろうか。ホモ・サピエンスに平和裏に吸収されたと想定する学者もいる。そういう学者は、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとのへだたりはさして大きくないとして、ネアンデルタール人の学名を(Homo sapiens var.neandelthalensis)と書いたりする。var.は、ラテン語のワリエタリスの略記で、その変種ということである。あるいは、ホモ・サピエンスに暴力的に絶滅させられた可能性も否定できない。霊長類のなかで、もっとも凶暴なのは、現代人ホモ・サピエンスであることは、その後のホモ・サピエンスの歴史から如実に証明されているところだからだ。

ところで、ネアンデルタール人のリーダーがグループのメンバーをひきつれて、高い崖の上に立ったとする。と、リーダーは「これは危険だ! ストップ!」ということを群れの人間たちに伝えるのに、吠えるような声をあげるとともに、強い体臭を放ってみんなにその危険さを伝えたのではないだろうか。そうすれば、その緊急性をスピーディーに群れのメンバー一同に伝えることができたと思われる。

そういうことに役立ったにちがいないと考えられる体験を、私自身したことがある。フランス南部のオートプロヴァンスに行ったとき、フランスにまで延びているアルプスの山腹を車でえっちらおっちら登っていた時だ。多分、海抜800メートルくらいのところで車を降りて、新鮮な空気を吸い、ふと足元を見た。足がふらついた。

私はかなり高所恐怖症の気(け)がある。

足元に600mくらいの谷が口を開けている。いまにも吸い込まれそうだ。思わずめまいがした。そのとき、私は体臭がさっと変わるのを感じた。そして、睾丸がキーンと冷えた。そして、女性だったらこんなときどこが冷えるのだろうかとバカなことを連想した。

こんな場合に遭遇した旧人のリーダーは、体臭を強烈に発して、危険性を知らせたに違いないと考えたのは、そのときだった。ネアンダルタール人にとって、(あるいはそのほかの旧人にとって)、こんな瞬間の緊急性を知らせるアラームとして、におい、異臭はきわめて有効だったろう。

また、私は、東京の新宿駅に立ったとき、微かながら異様な焦げ臭さを嗅ぎつけて不安におそわれ、駅員にわけを尋ねたことがある。原因は、駅から1km近く離れたところで発生したボヤで、もう鎮火したとのことだった。森林や草原などの火災では猛獣でもひたすら逃げるしかない。私もこの瞬間、一種の先祖帰りをしたのだろう。

しかし、コンスタントに先祖帰りをしている人間もいる。あるとき電車に乗ったら、隣の席の長袖の女性が、強烈な体臭を出していた。私は、思わずその若い女性の顔を見つめてしまった。悪いことをした。知らぬふりをきめこんでいればよかったのに。女性は悲しそうな顔をして、席を立って電車を降りた。女性は私がその顔を見つめたことが原因で下車したのか、それともそこが目的の駅だったのか、いまだにわからない。でも、ただただ、後悔の念がいつまでも残ってしまった。

人間の体臭について

ジャン・バルネ博士は、著書にこう書いている。

「芳香浴というものを、当世風の補足的な発明のように考えるのはまちがっている。
事実、芳香浴はいつの時代にも人びとの人気を得てきたのである。

しかし、フランスでは衛生とおしゃれの基本的な観念の欠如から、そうしたことが行われず、不当に判断されてきた時代がいくつかあったことは確かである。

それは14世紀[ルネサンスの時代]、ついでアンリ四世[16~17世紀はじめ]の治世であった。ぞっとするような汚い『善良王(ボン・ロア)』のこの時代は、とくに垢(あか)とノミ・シラミの治世であった。人びとはボリボリ自分の体をかいて体をきれいにし、美女は墓場[フランスでは土葬である]のような悪臭をさせ、貴族たちは『腋の下を少しすえ臭くし、足をむっと臭くしていた』。

ルイ一四世の時代も同様だった(何という幻滅だろう!)」。


そういえば、ミラノ公国のスフォルツァ公に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチは、この宮廷で美女の絵を描いたりイベントで貴族たちを楽しませたりしていたが、彼は、主君スフォルツァ公に、「みんなが飼っている動物で、死ねば死ぬほど嬉しくなるものは、何でございましょう」というナゾをかけたりした。答えは「シラミ」である。ルネサンスのころのイタリアのいろいろな宮廷、宮殿などの貴紳、美姫たちもフランスと同様、垢だらけで、ノミ・シラミの跳梁(ちょうりょう)に身を委ねていたに相違ない。今日のように、人びとは、貴賎を問わず、沐浴、シャワーなどで体を洗うことがなく、むっとした体臭を発していた。

日本でも、光源氏も紫の上も(これはフィクション上の人物だが)アバタづらで、むっと体臭をあたりにふりまいていたかと考えると、ゲッソリするのと同じことだ。でも、今日の感覚でむかしの人を論じてはなるまい。

ただ、『竹取物語』のかぐや姫が、 テレビドラマの水戸黄門に登場する美しい女優のように入浴するシーンを披露するとなれば、ちょっと見てみたいという男性は少なくないだろう(私は別ですよ)。

しかし、あの本を何度読んだって、彼女が竹から出現して以降、月に帰るまで、一度も沐浴したという記述がない。さぞ、臭かったでござんしょう。

でも、江戸時代になると、日本人の多くはひんぱんに沐浴するようになる。考えてみれば、日本ではそのむかしでも温泉がたくさんあったのだから、これを利用した人びとはかなりいただろう。当時、世界一の人口を抱える都市だった江戸には銭湯がたくさんできて、江戸っ子は、乞食以外は毎日、沐浴をした。

電燈などおよそない、薄暗い浴場だったから、男女が混浴したころもあった。石けんがない時代で、人びとはぬか袋で体をこすって洗った。どの程度の洗浄効果があったのだろう。

江戸時代の日本人は、清潔好きだった。反面、人前で肌を見せるのは平気だった。東京・新宿に四谷見附(よつやみつけ)という、役人が常駐する番所があった(もちろん、見附は江戸四方にたくさんあったが)。この番所は、もとより将軍様のお膝元に怪しい人間が近寄らぬように当局者が目を光らせているところだが、男がすっぱだかでこの番所を通っても、その男が肩に一枚、手ぬぐいを載せているかぎり、役人は何もとがめずに、江戸の御府内に通した。いまでは、こうはいかないだろう。

私が中学生ごろまで、電車の座席で乳児に乳房をあらわにして乳を与える女性はザラにいたし、男もさっぱり目をくれなかった。暑い夏には、通行人など気にもせずに平気で女性もたらいで水浴びをしたし、それをとやかくいう人間など、誰ひとりいなかった。

私の小学校の頃の同級生など、六年生のとき、同じクラスの女の子の家に遊びに行き、同じ部屋で一緒に寝たそうだ。このことを、どちらの親も、何一つ問題視しなかったし、事実、何事もおきなかった。現在だったら、絶対に、親はこんなことは許さないだろう。

いまの時代は、インフラは整備され、水洗トイレはいきわたり、人びとの衛生観念も発達した。私がこどものころは、男も女も平気で立小便をした(若い娘はさすがにそんなことは人目につくところではしなかったが)。

しかし、私は思う。確かに環境はきれいになり、人びとの暮らしは「衛生的」になった。

でも私たちは、衛生的に進歩して本当にキレイになったのだろうか。人工的なにおい、香りで天然のものを隠し、私たちの本能を人為的に麻痺させてしまっている。これが、人間として、本当にあるべき姿なのだろうか、と。

また、欧米人のマネを一から十まですることが、すべて正しいのだろうか。

アロマテラピーは、人間の感覚(それも複数の)を陶酔させ、人間の心身を自然なかたちで健やかに導く方法である。だとしたら、日本人は、日本人向けのアロマテラピーを創造し、私たちの感覚にマッチした、そして私たちの心身の真のありようを考えるべきではないだろうか。

日本人はヨーロッパ人と同じ服装をすることはできる。でも私たちの長い歴史がつちかってきた精神と感覚まで欧風にする必要があるだろうか。また、できるだろうか。ましてや
肉体の中身まで、腸の長さまで100%ヨーロッパ人なみにすることなどできようはずもない。

このことをもう一度考えてみよう。

2013年10月8日火曜日

精油(エッセンス)の効果と作用④

そのほかにも、さまざまな作用が精油にはある。
たとえばラベンダー油には、癒傷作用がある。これは、ルネ=モーリス・ガットフォセが「アロマテラピー」に想到するよりも、ずっと前からラベンダー油を香料会社の工場に納入していたフランスの農民たちが発見していたことだ。

しかし、なぜ真正ラベンダー油が傷をなおす力を発揮するのかは、いまだに科学的に解明されていない。だが、このことをルネ=モーリス・ガットフォセが世にひろく知らせていらい、アロマテラピーを学ぶものは、イの一番にこの精油の鎮静作用とともに、これの癒傷作用を知ることになる。そして、その無数の例があげられている。

だのに、その作用機序はいまだにはっきりわかっていないのだ。ラベンダー油に含まれる各種成分とビタミンCとが相乗的に働くためではないかという仮説を提出している学者もいるが、これも確かなわけではない。日本の各種アロマ協会のいろいろな金儲け目的のテストにも、このことはその試験問題として出たためしは一度もない(これにまっこうから答えられる「先生」方は、おいでにならんでしょう。ふふふ)。

ガットフォセは、アロマテラピーでは、テルペン類を除去した精油を使うように勧めている。今日、英国などのいわゆる「ホリスティックアロマラピー」の関係者が声高(こわだか)に叫んでいること、すなわち「脱テルペン精油は、天然自然から遠ざかった存在だ(だから、治癒力が乏しい)」という主張、あるいはジャン・バルネ博士の「トータルな精油を信頼しよう」という信念と、およそ正反対の考え方である。多くのアロマ関係者は、このことに触れたがらないが、私は敢えてこれに言及しておく。

ガットフォセは、精油はできるだけ精製した精油、いってみればホール(Whole)なもの、とはまるきり反対の精油を使わなければ、精油の効き目は期待できず、精油を用いた治験で多くの医師が失敗の苦汁を味わってきた理由はここにあるとガンコに言い張っている。このことを現代の私たちが完全に否定しきれるかどうかが問題だろう。

彼が医学的知識に暗かったせいだというだけでは、本当の反論にはならない。ルネ=モーリスの会社が製造していた精油が脱テルペンしたものだったことを、そう言って正当化しようとしたのだろうといっても想像の域をでない。きちんと医学的・化学的にじっくりと、それが正しいか否かを考察する必要があるだろう。

ルネ=モーリスの主張を肯定するにせよ、否定するにせよ、このことは重要な作業である。

ガットフォセはさらに、多くの脱テルペン精油(真正ラベンダー油を含めて)は、ベルガモット油にどんどん近い存在になるとも言っている。

だとすれば、現在、アロマテラピー関係者が、製造したり販売したりしている精油の多くは存在理由がなくなってしまうことになりはしまいか。ルネ=モーリスのこの考えは、果たして正しいだろうか。

ユーカリ油やカンファー油などのいくつかの精油は、呼吸器系に明瞭な効果をもたらすことは、すべてすでに科学的ないし医学的に説明がついている。

かんたんに言えば、その精油成分が呼気・吸気の通路を塞ぐ状態の余分な水を抑制し、気道を拡大させて局所的に効果をあげることで、呼吸をらくに行えるようにするからだ。

日本では、大正製薬という会社から『ヴィックスヴェポラッブ』という指定医薬部外品(塗布剤)が出ている。これは、ユーカリ油、カンファー油、l-メントール、 杉葉(さんよう)油などが配合されており、これを胸部、頸部、背中に大人の場合、1回につき6~10g(小児ならもっと少なめに)をすりこむと、体温で精油成分が蒸散して鼻腔・口腔から(精油の一部は経皮吸収もされるだろう)呼吸器に入って、かぜ・インフルエンザ・喘息などで気道がせばまって苦しい症状を大幅に緩和できる。

カンファー油のような精油はまた、リウマチ性の疾病や関節炎その他の炎症を生じた部分に局所的に適用する。10mlのホホバ油に精油を3~4滴まぜて皮膚にマッサージしながらすりこむと、炎症を鎮め、痛みを和らげることができる。これも、科学的に説明がつく。

2013年10月4日金曜日

精油(エッセンス)の効果と作用③

抗ストレス作用。たぶん、いろいろな精油を通じて、いちばん著明にみられる作用ではないかと思う。この効果はたぶん大脳辺縁系そのほかの大脳中の諸部分を通じて発現するものと私は考えている。

精油のこの効果はCNV(随伴性陰性変動)その他に示され、脳のある部分はリラックスし、ほかのところは刺激を受けて励起していることがわかる。

マッサージ自体、リラックス効果があることがよくわかっている。心身をリラックスさせる力をもつ精油をこれに組み合わせて用いると、十分な抗ストレス作用が期待できる。
これは、私自身、知り合いの女性セラピストにそのような精油を使って施術してもらったことがあるので、その経験から、よく納得できる。

ストレス(肉体的・精神的)は、いずれも身体のなかに蓄えられているエネルギーならびに中間代謝システムに、ホルモン(アドレナリン効果)および第二次メッセンジャー物質、そして同様の効果を示す各種効果を通じてショックとか恐怖心・闘争本能とかといったものをひきおこす。

この後者は、とくに心拍を亢進させ、体液の循環を促進し、さらにそれとともに襲ってくる恐れのあるものに即座に身体と精神との双方をさっとスタンバイさせる。そうした刺激が消失するとすぐに、体内のプロセスは正常な状態に復する。

しかし、そのようなストレスがずっとつづくと、身体はコンスタントに用心し警戒しつづけなければならない状態におかれることになる。すると、私たちの精神にはパニック発作、問題を直視せずに「ひきこもる」気持ち、うつ状態などが生じ、それと関連した肉体的症状(高血圧、喘息、乾癬、心悸亢進、神経の緊張、神経の極度の疲労、神経衰弱など)が発症するとともに、感染症などにたいして肉体が本来有している、抵抗力も大幅にダウンしてしまう。

したがって、ストレス要因を軽減ないし除去すれば、ストレスに関連しておこる疾患の、少なくとも一部はなおせるということになる。しかし、そうした精神の興奮を十分に鎮静させるには、適当な精油(たとえばラベンダー油など)のみの使用だけでなく、あわせてライフスタイルを変化させるとか、食生活を変えるとかいったほかのファクターも十分に考慮に入れることを忘れるべきではない。

精油類は、あるいはアロマテラピーは、決してそれのみで万能の力を発揮するものではないことを常に念頭において頂きたい。

2013年10月1日火曜日

精油(エッセンス)の効果と作用②

ゼラニウム(Pelargonium ssp.)をはじめ多くの植物の精油には、平滑筋を刺激する働きがあるとされる。そのために、これらの精油のいくつかは胃腸によく効き、その働きを活発化する。これはさまざまな、動物実験で確かめられている。

しかし、人間を対象として実験した場合、こうした効果をもつとされる精油類をキャリヤーオイルで適切に稀釈して胃腸の部分にマッサージした場合、これにより症状が著明な改善をみたというエビデンス(はっきりした根拠・証明)は、いささか少ないのが実情である。

しかし、フランスのアロマテラピーを実践している、少なからぬ医師は、これらの精油を、連日15mlもの量を未稀釈で患者に経口摂取させたり、直腸から直接血液中に入れたりして好結果をみたと報告している。

しかし、英国の研究者・医師などの多くはこの報告自体を疑問視しており、in vivoで、つまり生体内ではもっともっと精油は薄めなければ危険だとしている。

マリア・リズ=バルチン博士は人間の回腸内などでは20万分の1以下の濃度に稀釈しても、これらの精油は活性を示すと警鐘を鳴らしている。

こうした点が英国とフランスとのアロマテラピーの差の一つなのであろうが、精油の経口摂取に関しては、私はこう考えている。

①人間は、そんな高濃度の精油を稀釈しないで飲んだ経験が、人類誕生以来700万年間ないことから、人間の身体は、それをうまく受け入れ、かつ代謝して排泄するようにはなっていない。

②それに関連して思うのは、このことは精油のみならず、ビタミン剤、ミネラル剤とくにサプリメント類なども含めてあてはまり、こうしたものが含有する栄養分は、やはり通常の食品からさまざまな夾雑物を含めたかたちで摂取するのがもっとも自然で健康的な方法であろうということである。

精油(エッセンス)の効果と作用①

みなさん、アロマテラピーに関心をお寄せになるかぎり、精油のことを考えない日はないと思う。そこで、私自身、ここで初心に立ち帰って、再度、精油(ないし、エッセンス)について検討してみよう。

精油は、疾病を治癒させる力が、どの精油・エッセンス類にもかならずあるか。

答えは残念ながら「ノー」だ。治癒させる力が皆無というのではない。精油の一部に、ときとしてそういう力を発揮させるものがあり、それらを適切に用いてはじめて所期の目的を果たすケースがある、といっておくのが無難である。

精油類を使用しても、各種のガン、そのほかの重い疾患をいやすことは、いまのところ不可能だ。アロマテラピーは、魔術でも魔法でもなく、何か奇跡のようなことを行う治療法でもない。

精油、エッセンスの有する治癒力は、まず第一にそれらがもつ「抗微生物作用」 にある。

抗微生物作用。すなわち、細菌・ウイルス・真菌の増殖を抑えたり、それらを死滅させたりする精油、エッセンスの種類は多く、これまで各種の疫病・伝染病が、これらの力によって防がれ、またそれによって傷のなおりも促された事実がこれまでに厳としてある。

ジャン・バルネ博士が、インドシナ戦争(第一次ベトナム戦争)の際に、未稀釈のティートリー油を傷病兵にたいして局所的に体表に使って、見るべき成果をあげたというが、私はこれは信じてよいと思う。

ティートリー 油は、インドシナ半島から程遠からぬオーストラリアですでに対日戦時に用いられていて効果があったことは、バルネ博士も軍医として知っていたであろうし、これをフランス側に立ってベトナム人の独立を圧殺しようとしていた米国のほとんど属国化していたオーストラリア・ニュージーランドからとりよせることは、比較的容易だったはずだからだ。

しかも、ティートリー油は、ほかの各種の精油と異なり、香料とか香水などの原料として利用されないので、よけいな(しかも人体に危険性を示すかも知れぬ)化学増量剤などを含まず、100パーセントピュアなものであった。そうした精油には、ユーカリなどもあげられる。

ジャン・バルネ博士自身も、この戦場で(インドシナ半島)、何と何との精油を使用したか明確に記していない(これは、博士も医師として不誠実のそしりを免れまい。守秘義務なんてあるわけもないからだ)。
なお、バルネ博士が第二次世界大戦中からアロマテラピーを実践したかのようにいうものもいるが、実際にはこのインドシナ戦争からである。


しかしまた、一部のアロマテラピー関係者が主張するように、たとえばキャリヤーオイル10mlのなかに1~2滴だけ精油を入れてこれを稀釈し、これを患者の全身にマッサージして、その患者の体内の組織・器官に侵入し、感染症を起こした細菌、その他の微生物類にその効果を十分に発揮させるのは、理論的にいってムリである。皮膚表面にキャリヤーオイルに稀釈した精油をマッサージしている間に、無駄に空気中にいかに多量の精油が蒸散してしまうかを考えてみればすぐわかる。

皮膚から体内に浸透する精油の速度は、残念ながらきわめて緩慢なのである。したがってその絶対量も少ない。

また、精油類は人体に悪質な微生物だけを殺し、人間に悪さをしない微生物には何もせず放置するなどというタワケタ主張をするものがいるが、これは全くのウソである。むろん精油によって、その種類によって、それが殺す微生物の種類と総量とに差が生じることは確かだが。

そう世の中は、また自然界というものは、人間にばかり都合よくできているものではない。
バイブルの記述をあまりマトモにうけとってはいけない。

2013年9月24日火曜日

「バレエ・リュス」とアロマテラピー

以上、いろいろな観点から、バレエ・リュスについてのべてきたが、これは、当時のほとんどのヨーロッパの芸術家たちが「芸術のめざすのは、人間の感覚を陶酔させることだ」と信じて、さまざまな作品をものしてきたこと、そして、その一つの象徴的なかたちが、絵画・文学、そしてむろんのこと、その結果、舞踊というものが、その時代思潮をあらゆる方面に拡大延長していった事実を史実に照らして確認したかったからである。

その作品にさまざまな形式で接する人を「陶酔させること」
--それが果たして芸術の真の存在理由であるかどうかは、まさに神のみぞ知るところだろうが、当時の人びとの多くは、ことに芸術家たちは固くそう信じた。

その象徴的なものが、「バレエ・リュス」だった。バレエ・リュスが提出した答えが、人類が古来、営々とつくりつづけてきた「芸術」ないし「芸術的」な作品のただ一つの存在理由に収斂するか否か私には疑問だが、19世紀末から20世紀初期にかけて、多くの芸術家が提出したこの答えにたいして、まだ私たちが明確な一定の反応なり態度なりを示せずにいるということは確かであろう。

さて、第一次大戦後、フランスの領土になったアルザスに移住した、マルグリット・モーリー、本名マルガレーテ・ケーニヒは、やはり外科医の補助をする看護師のしごとをここでつづけていた(アルザスはフランス領といっても、住民はドイツ語〔厳密にはそのアルザス方言だが〕を話していたので住みやすかったとも考えられる。この地方の住民がまるでピュアなフランス語を話していたかのように書いた、フランスの三文右翼作家ドーデの『最後の授業』は、ウソの固まりだ)。

また、よくマルグリット・モーリーは「生化学者」などといわれるが、少なくとも、今日biochemistry(生化学)というタームが意味するものは、彼女が「研究」していたとされるものとは大幅に異なることも知っておいて欲しい。

フランスで、ホメオパシー医のモーリーと知り合った彼女は、モーリーと再婚し、以後自分の名前もフランス風にMarguerite Maury (マルグリット・モーリー)と変え、それからは、ずっとこの名で通した。

ホメオパシー医の夫のモーリーは、中国やインドやチベットの宗教・哲学などにかなり詳しかったとみえ(正確だったかどうかは別問題だ)、マルグリットは夫からその方面の知識を教わった。

また、マルグリットは、はやくも、1835年にフランスで出版された"Les Grandes Possibilités par les Matières Odoriférantes " (芳香物質の大きな可能性)という本を入手し、これをよく読んだ。この本は、フランスのシャバーヌ博士が著したもので、同書は1937年にルネ=モーリス・ガットフォセの出した"Aromathérapie"とならんで、彼女の座右の書となった。また、マルグリットは、神経系に及ぼす精油類の力の研究を行い、これも彼女の「アロマテラピー」理論の基礎となった。
 
マルグリットも夫のモーリーも 、文学・美術(マルグリットの場合は自殺した父からの影響もあったものと思う)・音楽など、芸術一般にともども深い興味を寄せていた。この二人が、アンナ・パヴロワがウィーンで、ベルリンで、ミラノで、パリで時代を画するバレエを発表したことを、またディアギレフの「バレエ・リュス」のエポックメーキングな成果のことをさまざまに語り尽くしことは想像に難くない。

ここに、私はバレエと、総じて芸術とアロマテラピーとの幸福な結婚を見いだすのである。

 
そうしたことが、一体となって、マルグリットは人間の嗅覚・触覚などを、芸術と同様に陶酔させようという、ルネ=モーリス・ガットフォセの考え方とはかなり異なったアプローチで人を美しくし、かつ健やかにすることをめざした独自のアロマテラピーを構築した。精神=神経=心理=免疫といった人体の各機能の不可分の関係に、彼女は直観的に気づいていたのであろう。

まだ、当時の医学界は、そこまでの知識を持っていなかったからだ。

マルグリットは女性として、コスメトロジー(美容術・化粧品学)にも強い関心を寄せ、国際エステティック協会(CIDESCO)に関係し、その会長(現在はこう呼ばないそうだが)に2度も就任した。そして、CIDESCO賞をそのコスメトロジーへの貢献を賛えるということで、これまた2度も受賞した。このことについて、いささかお手盛りの感があると本に書いたら、まるで私がイヤミを言っているかのような非難をした人がいた。私は19世紀フランスの詩人、シュリー・プリュドム[Sully Prudhomme]のことを思い起こしたのだ。プリュドムなどという詩人のことを知っている人間は、日本には仏文学の専門家以外はほとんどいないだろう。彼は第1回のノーベル文学賞受賞者だ。この私も本来はフランス文学専門だから、プリュドムの原詩も、その文章もいくつか読んでいる。しかし、本当に心を動かされる彼の詩句にも文章にも一度もであったことがない。
 
しかし、ロシアの文豪レフ・トルストイといえば、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』、さらには『イワンの馬鹿』などで、文学に親しんだ人なら知らぬものはない。彼の作品は、国境を越えて多くの人の魂をゆり動かし、日本では、白樺派まで結成させた。トルストイはノーベル文学賞を決定する際にはその選考委員に任命されていた。当然のことながら、彼はその受賞者に推挙されたが、トルストイはぴしゃりと受賞を謝絶した。その立場上、当然であったろうが、さる方面からシュリー・プリュドムという、フランス国外ではほとんど知られていないフランスの詩人に、どうあってもこの栄えあるノーベル文学賞第一号を与えようとする政治的圧力があったらしい。ま、こんなことはどうでもよいが、私たちはトルストイの作品に触れるたび、いつも深い感動に包まれずにはいない。
 
マルグリット・モーリーのことで、私にイチャモンをつけた女性[だろう]は、たぶんシュリー・プリュドムの作品はおろか、その名も知るまい。第一、その名前すら正確に発音できまい。
マルグリット・モーリーが受賞したとき、彼女は会長の地位を退いていたが、マルグリットは依然として、CIDESCO内で隠然たる勢力をふるっていた。
したがってCIDESCOが最優秀エステティシエンヌに賞を授与するとなれば、彼女に与えるしかなかったのだ。このことを、マルグリットの弟子だったダニエル・ライマンに確かめたところ、ダニエルは苦笑まじりに肩をすくめ、「仕方なかったんですよ(Que voulez-vous?)何しろ、技術面でも理論面でも彼女に比肩できる女性はいなかったのですから(Elle était sans égale)」と言っていた。 

だから、マルグリットの受賞には「お手盛りの感がある」と私は言ったのである。そのくらいのことは調べてから、人に文句をつけるものですよ、お嬢さん、いやおばさん。

マルグリット・モーリーは、フランスやスイスなどヨーロッパ各地にクリニックを開き、アロマテラピーによる美容法をクライアントたちに施術した。そして、そのかたわら、自分の生徒たちにエネルギッシュに(しかし、何か秘密の宗教でも伝授するように)、自分のアロマテラピーを教えた。
ここに、藤田博士は黒魔術の臭いをお嗅ぎになるのだろう。
 
私が、ロンドンで知り合っていらい友人となっているマルグリットの愛弟子、ダニエル・ライマンが彼女の死後、実質的にそのあとを継ぐことになったが、20歳代半ばの彼女にはクリニックの運営は大変な重荷だったとのことだ。
 
マルグリットの弟子として、その後の英国のアロマラピーの教師になったのは、上述のダニエル・ライマン、ミシュリーヌ・アルシエ、シャーリー・プライスらがいる。とくに、1968年にマルグリットが脳卒中で死去したとき、もっとも近くで彼女を看取ったダニエル・ライマンは、「私はマルグリットの心のこども(マルグリットにはこどもがいなかった)であり、生徒でした。彼女は私の人生のメントール(賢明で信頼のおける助言者)でした」と。繰り返し言っている。

クライアントを感覚を通して陶酔させ、エクスタシーに導くことを主眼としたマルグリット・モーリーのアロマテラピーは、芸術的アロマテラピーというのは言いすぎかも知れない。しかし、私はマルグリットとその夫とが創り出したアロマテラピーは、ある意味で「バレエ・リュス」がメタモルフォーズして生まれ変わったものの一つだと私は信じている。

アールヌーヴォーの衝撃②

沖縄県那覇市・兵庫県明石市でのアロマテラピーの講義とその準備、今後の講演の打ち合わせなどに時間がかかってしまい、執筆が予想以上に遅延したことを深くお詫びいたします。

今回は、アールヌーヴォーを支える精神的な支柱を、バレエという、人間が生み出したもっとも美しい芸術としばしば称される、人間が身体を駆使して、その魂を、その精神を縦横に表現する芸術を、今日の姿に育てあげた功労者の一人、ロシア人、セルゲイ・パヴロヴィッチ・ディアギレフについて語りたい。

ディアギレフは、1872年、ノヴゴロドの近くのペルミの比較的裕福な地方貴族の家に生まれた。母は彼を生んだその3日後に亡くなった。父親の再婚に伴って、当時の首都サンクトペテルスブルクで幼少時代を送り、10歳のとき故郷ペルミに戻った。

継母は彼を実の子のように心から愛した。この継母は莫大な財産の持ち主だった。何不自由ない青少年時代を送ったディアギレフは、1910年に再度上京して、ペテルスブルク大学の法科に籍をおいた。

しかし、彼は法律の授業にはほとんど出席もせず、芸術家を志して作曲・声楽を学び、マリインスキー劇場などで開催される演奏会などに頻繁に通った。のちに創刊する、『芸術世界(ミール・イスクーストヴォ)』誌で、ともに活動するアレクサンドル・ブノア(ロシアではベノアと呼ぶ)、レオン・バクストといった芸術愛好家らとの面々と知り合いになり、芸術談義に花を咲かせた。

しかし、作曲の師であるリムスキー=コルサコフから、「君には作曲の才能が欠如しているよ」と引導をわたされ、声楽も声質が悪かったことから(ピアノ演奏の腕前は相当のものだったらしいが)、みずから芸術家になることをあきらめた。そして、大学卒業後、自分を深く愛してくれた継母を亡くした彼は、継母の莫大な財産を手に入れ、西欧各地を旅行した。

そして、方々で名画を購入し、その展覧会を開催し、1897年以降6回も皇帝一族をその会に招待した。

同年、ブノアやバクストらと『芸術世界』を創刊したディアギレフは、1904年に同誌を廃刊するまで、英国のビアズレー、フランスのモネら西欧の新しい美術やロシアのアヴァンギャルドの画家たちの作品を誌上で紹介しつづけた。ディアギレフらは、さらにこの雑誌で安藤広重や葛飾北斎にいたる幅広い世界の芸術をロシア人に知らせた。これは日本人も知っておくべきだろう。


こうした活動の総決算のようなかたちで、1905年にディアギレフらはサンクトペテルスブルクのダヴリーダ宮殿で、『ロシア歴史肖像画展』を開催し、貴族皇族のコネを利用して、帝室の芸術作品のコレクションおよび全国各地から集めたものを約3000点を展示した。

このとき室内装飾を担当したのが、レオン・バクストだった。このころのロシアは迫り来る革命、日露戦争という内憂外患に悩まされる、ひどい不安定な情勢のもとにあったが、この展覧会には、ロシア帝国の最後の皇帝となってしまった、ニコライ2世をはじめ、多くの人びとがつめかけ、世界の芸術の新風を理解しようとした。

こうした空気がロシア革命直前から1930年代まで続行された「ロシア アヴァンギャルド」芸術を醸成(じょうせい)したことは確かだろうと思われる。

混乱する政治状況のもと、ディアギレフは西欧にロシア文化を大々的に紹介しようと考えた。

1906年に、彼はパリのプチ・パレでロシア人画家たちの大規模な展覧会を開き、これを成功させた。これによって、ディアギレフは、フランスの文化界・社交界と交流するきっかけをつくった。

ついで、ディアギレフは、ロシア音楽をパリで紹介することを計画し、1907年5月に5日間にわたる演奏会では、作曲者ラフマニノフ自身のピアノ演奏(彼はピアノの名演奏家でもあった)による『ピアノ協奏曲第二番』が披露され、さらにリムスキー=コルサコフ、スクリャービン、グラズノフがそれぞれ自作を演奏し、さらにチャイコフスキーの『交響曲第二番』その他のロシア音楽の粋というべき名曲の数々がパリジヤンに紹介され、これまた大成功を収めた。また、彼は世界のオペラ史上に不朽の名声を残したフョードル・シャリアピンによるオペラ『イーゴリ公』の抜粋版を上演させ、シャリアピンを主役にしたモデスト・ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』全幕上演を、パリのオペラ座で実現させた。

パリの聴衆は、バス歌手シャリアピンの比類のない柔らかいバスの美声の歌唱力と、その演技力にひたすら驚嘆した(ちなみに、シャリアピンはラフマニノフの無二の親友だった)。

つぎに、ディアギレフはロシアのバレエをシャトレ劇場で「バレエ・リュス(ロシアバレエの意)」として発表した。ここでは『アルミードの館』、オペラ『イーゴリ公』の第二幕から独立させた『ポロヴェツ人の踊り』、『レ・シルフィード』、『クレオパトラ』などがパリの人びとに初めて紹介され、アンナ・パヴロワ、ヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサーヴィナなど、ロシアでもっとも優れた若手バレエダンサーたちの目を見張る超絶的な舞踏テクニック、演劇的表現力、さらには前述の『ポロヴェツ人の踊り』での、これまでフランス人も英国人もまったく知らなかった男性ダンサーたちの勇壮な迫力に満ちた踊りは、19世紀後半からとくにパリで凋落(ちょうらく)し、腐敗しきっていた「バレエ」(フランスなどのバレリーナは売春婦同然の存在だった)というものしか半世紀近くも知らなかったパリの観客に一大衝撃を与えた。

この男性がバレエで踊るということについて、英国の有名なバレリーナ、マーゴ・フォンテーンが「英国など西欧の男性は、踊ることを恥ずかしがっていたが、ロシアや中東やアジアの男性は進んで踊る。踊りを好む。これが、西欧がバレエにおいて、とくに男性ダンサーに活躍の場を与えず、バレエでロシアに遅れを取った原因だ」という意味のことを語っていた事実が想起される。そういえば、日本人男性もさまざまに祭りの踊りをやるし、日本舞踊の家元はほとんどが男性だ。
マーゴ・フォンテーンは幼少時に父親の赴任地、上海でロシア人男性バレエ教師からバレエの手ほどきを受けていた。

ディアギレフのパリでのバレエ公演は、芸術的には大成功を収め、バレエ・リュスの名声は英国に伝わり、ロイヤルバレエ団を結成させ、米国のニューヨークシティーバレエ団をつくらせるという結果を生んだが、財政的には、ディアギレフはほとんど破産状態だった。(当時はテープレコーダーのようなものなどなく、リハーサル時にもオーケストラ団員に報酬をいつも支払わなければならなかった)。にもかかわらず、ディアギレフは将来の公演に備えて、ラヴェルに『ダフニスとクロエ』の、またディアギレフが発見した新進作曲家ストラヴィンスキーに『火の鳥』の作曲をそれぞれ依頼し、ロンドンに行って、公演会場探しをやったりしている。

彼をそこまで駆り立てたものは、いったい何なのか。金をもうけようなどという気でなかったことは、火を見るよりも明らかだ。

話はちょっとそれるが、バレエ・リュスに参加して、フォーキンが、10分という短時間で振り付けたサン=サーンスの『動物の謝肉祭』の『白鳥』に題材をとった『瀕死の白鳥』を踊って、世界的な名声を得た、20世紀初頭の最高のバレリーナ、アンナ・パヴロワ。彼女も第二の「バレエ・リュス」である。

アンナ・パヴロワは、もとより航空機もなく、鉄道網もおよそ整っていなかった当時、ヨーロッパ各国ばかりでなく、米国、英国、中南米諸国、オーストラリア、インド、東南アジア、日本にまでも足を延ばし、ロシアのバレエを紹介して普及させた。

彼女は実に地球を13周ぶん以上もの距離を旅し、地の果てまで回った。今日、私たちがチャイコフスキーの『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』アダンの『ジゼル』などを観賞できるのも、アンナ・パヴロワとディアギレフとの両人のお陰である。

ただ、この二人の天才は、ソリが合わず、とくにパヴロワはストラヴィンスキーの音楽が大嫌いで、ディアギレフとともに『瀕死の白鳥』などで全ヨーロッパに名を轟かせたのは、ごく短期間であった。

彼女は日本では、1922年横浜や東京などでバレエを披露し、とくにパヴロワの代名詞にまでなった演目、『瀕死の白鳥』は、バレエに初めて接した日本人にも感銘を与え、芥川龍之介は「今日、僕は非常に美しいものを見た」と記しており、また歌舞伎界の六代目尾上菊五郎もパヴロワと芸談に花を咲かせ、パブロワの踊りに感銘を受けた菊五郎は、歌舞伎舞踊の『鷺娘(さぎむすめ)』に、『瀕死の白鳥』の振りをとり入れた。

彼女は50歳代初めに、オランダ公演へ赴く途中で病気に倒れ、手術を拒否して他界した。「白鳥の衣装をもってきて・・・」というのが、熱にうなされたパヴロワの最後のことばだった。

彼女が生きていれば公演するはずだった、オランダの劇場では、オーケストラがサン=サーンスの白鳥の曲を演奏し、投光器がパヴロワが踊ったであろう位置にライトをあて、観客はシーンとしてそれを見守り、曲が終わると万雷の拍手を送ったという。

以後、20年もの間、『瀕死の白鳥』を踊るバレリーナは出なかった。不世出のバレリーナといわれたアンナ・パヴロワと技倆をあからさまに比較されるのを恐れたこともあろうし、フォーキンとパヴロワとが創り出した一種の神聖な空気を犯す涜神(とくしん)的な行為と考えたこともあるだろう。

やがて、ソ連の名バレリーナ、マヤ・プリセツカヤがフォーキンの原振付けを少し変えて、『瀕死の白鳥』を踊り、以後、何人もの有名なバレリーナが、あるいはフォーキンの原振付のまま、あるいはそれをすこし変えて踊り続けている。
ロシアの男性ダンサーのファルフ・ルジマートフも、男性用タイツ姿でこれを見事に踊ってみせている。

話をディアギレフに戻すと、1910年、ディアギレフはバレエ団を再編成し、パリのオペラ座でストラヴィンスキー作曲の新作の『火の鳥』のほか、バレエ用に組曲を改編したりムスキー=コルサコフの『シェエラザード』を上演し、またまた大成功を収めた。

この公演では、ブノワ、バクストらの舞台美術も、フランスの芸術家たちに非常な刺激を与えた。とくに『シェエラザード』は、その踊りもさることながら、アールヌーヴォーの香りを漂わせるその舞台美術、衣装、大道具、小道具は、同時にそのころのパリの人士たちの夢想する「豪奢(ごうしゃ)で、華麗で、神秘的で、エロティックで、残酷なオリエントの世界」に、ひとときなりとも、思うさま浸りたいという思いを十二分に堪能させるものだった。ニジンスキーやカルサーヴィナらの演技がエロティックすぎる、アブなすぎるという非難の声もあがり、退席する観客もいたほどだが、それがまたさらに人気を呼んだりした。

バレエ・リュスのこのエキゾチックな魅力は、フランスの「野獣派(フォーヴィスト)」と呼ばれる画家たち(とくに、マチス、ヴラマンク、ブラックなど)や、またある意味で従来の芸術的な理念、アールヌーヴォーのアンチテーゼ的な観念、アールデコ様式を理想とする人びと(イラストレーターのジョルジュ・バルビエなど)にもまた反面教師として影響を及ぼした。

ロシア芸術は、芸術理念の変容をつぎつぎに生み出していく、きわめて豊穣(ほうじょう)な美田だったのだともいえよう。

こうして、2度のバレエ公演を成功させたディアギレフは、1911年に正式に常設のバレエカンパニー「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」を結成した。ディアギレフは、天才を発見する天才だった。彼は多くのフランス・ロシアなどの優秀な若手の芸術家を動員し、「総合芸術としてのバレエ」という、前代未聞の芸術スタイルを確立した。
三島由紀夫が「軽金属製のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と評したジャン・コクトーも、 バレエ・リュスの脚本作りに参加し、『失われた時を求めて』のプルーストもこのバレエを観賞して「こんなに美しいものを見たのは、生まれて初めてだ!」と叫んだことも付言しておこう。

このバレエ・リュスでは、新進気鋭のミハイル・フォーキンの振り付け作品が大半だったが、天才的な技巧と演技力をもつダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキー(彼の超絶的テクニックの一つを具体的にお話しよう。ニジンスキーは、ピョンと一度飛び上がって、ふたたび着地するまでに、両足の裏を10回、打ち合わせることができた。みなさんも、一度お試しいただきたい)は、新作バレエの振り付けも行った。そのほかの有名な振付師は、レオニード・マシーン、ブロニスラヴァ・ニジンスカ(ヴァーツラフ・ニジンスキーの妹)、ジョージ・バランシンらがあげられ、いずれもユニークな振り付けを競うように行った。

ストラヴィンスキーは、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』、『プルチネルラ』などを作曲し、ラヴェルは『ダフニスとクロエ』、ドビュッシーは『遊戯』、プロコフィエクは『道化師』、『鋼鉄の歩み』 、サティーは『バラード』、レスピーギは『風変わりな店』、プーランクは『牝鹿』など、今日なお私たちの耳になじみ深いたくさんの新進作曲家たちがみな、ディアギレフの求めに応じてバレエ音楽を真剣に創り出した。それまで多くの作曲家は、バレエ音楽というものを軽視、あるいは蔑視(べっし)していた。チャイコフスキーは、例外的な存在だった。それかあらぬかフランス人の多くはチャイコフスキーを平凡な作曲家としかみなかった。

バレエ・リュスの舞台芸術を手がけたものには、ロシア人ばかりでなく、ピカソ、マチス、ローランサン、ミロ、ルオー、ユトリロなどの有名な画家たちがいる。彼らは、そこからまた逆に自分たちの霊感を得たに相違ない。彼らの画風は、このあたりを境にそれぞれ大きく変化していった。

 パリ社交界のパトロンたちや、デザイナーのココ・シャネルらは、バレエ・リュスの活動を金銭的に援助した。公演が成功しても、ディアギレフの手にはほとんど金銭は残らなかった。どう工夫しても、支出のほうが収入を上回ってしまうからだった。

ディアギレフは、新作バレエだけでなく、チャイコフスキーの『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』、アダンの『ジゼル』も上演した。

ディアギレフは、ロシアオペラの上演も何度となく行った。リムスキー=コルサコフの『プスコフの娘』、『五月の夜』、『金鶏』、ストラヴィンスキーの『マヴラ』などがその演目である。

ディアギレフは、1929年にドイツやスイスなどを旅したが、同年の8月19日に持病の糖尿病が悪化して、ヴェネツィアのホテルで死去した。そこに駆けつけたのが、ココ・シャネルとそのポーランド人の女友達、ミシア・セールだった。ディアギレフは、このときほとんど無一文だった。金目のものは、せいぜいカフスボタンぐらいだった。

ココ・シャネルは、たまっていたホテル代を支払い、ミシアと二人だけでディアギレフの野辺送りをした。ディアギレフの遺骸は、ヴェネツィア近辺のサン・ミケーレ島に埋葬された。世界大恐慌のおこる二ヶ月前のことであった。

バレエ・リュスは、ディアギレフの他界によって解散したが、その団員からはバランシンらのように、ロシアのクラッシックバレエの伝統と真髄を英米に移植したものや、バレエ教師となって多くのダンサーを育てたセルジュ・リファールのように、パリ・オペラ座のバレエを復活させるのに貢献したものがつぎつぎと出た。2012年に亡くなったモーリス・ベジャールもこの系統の人物である。極論すれば、ディアギレフとはやばやと決別したアンナ・パヴロワなどは別格として、直接間接にディアギレフのバレエ・リュスの影響を受けなかったバレエダンサーは少ないといってよいだろう。

ディアギレフは、実母が自分を生んだことで死んだり、継母に深く愛されたりしたことが原因しているのかどうかわからないが、(英ソ合作の映画『アンナ・パブロワ』には、そんなことをにおわせるセリフが出てくるが)、ともかく、一生を通じて同性愛者で、女性を愛した経験は皆無だった。したがって、彼の子孫はいない。

彼には、性愛の対象の男性を一流の芸術に触れさせて教育する癖があった。その相手としてもっとも有名なのが天才的バレエダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーである。ニジンスキーのほうは、ディアギレフのような「真正同性愛者」ではなく、ディアギレフとの関係に嫌気がさして、勝手に女性と結婚して、ディアギレフの逆鱗に触れて絶縁されたが、その後もディアギレフはマシーン、リファール、晩年には秘書のボリス・コフノともそうした関係をもった。

そんな関係をディアギレフともったことが原因かどうかわからないが、この天才的ダンサー、ニジンスキーは8年間活躍しただけで引退してしまい、統合失調症(精神分裂病、スキゾフレニア)になり、その後の人生は精神病院をたらい回しにされ、インスリンショック療法を受けつづける痛ましいものだった。そんな彼を妻ロモラは献身的に看病したが、症状は好転せず、1950年、ロンドンで生涯を閉じた。ロモラは『神との結婚』という回想録を書いている。

2013年8月14日水曜日

アールヌーヴォーの衝撃①

19世紀の後半、東方から(ある英国人は、私に、中央アジアのサマルカンドあたりからではないか、となかば真剣に言っていた)、一陣の魔法の風が、ロシア、オーストリア、フランス、そして英国に吹き寄せてきた。そして、この風は大西洋を渡って米国に、さらには極東の日本にも及んだ。

この風は、建築・家具・ガラス工芸・宝石細工・ポスター・挿絵など、人びとの身のまわりのもののデザインにまずあらわれた。

この様式、あるいはそれを生み出した風潮を、まとめてフランス語で《Art nouveau》アールヌーヴォー-すなわち、新しい芸術と称する。フランス・ベルギーのフランス語圏では《Style nouveau,スティルヌーヴォー》、《Style moderne、スティルモデルヌ》とも呼んだ。前者は「新しい様式」、後者は「モダン様式」を意味する。ドイツでは《Jugendstil》ユーゲントシュティル(青春様式)と称した。

各国の貴族社会が崩壊しつつあったこの時代、資本主義はいちだんと発展し、都市化・工業化がヨーロッパ各国で進展した。

各国の芸術家は、工業社会がもたらす醜悪な生活環境に抗議し、新しい酒を満たすのにふさわしい新しい皮袋を創り出そうとした。

しかし、この「魔法の風」は、それにふさわしい不思議な吹き方を幾重にもわたってした。

アールヌーヴォーが最初にあらわれたのは、産業革命が各国に先駆けておこった英国である。それだけ工業社会の空気と芸術との矛盾が、あるいは乖離(かいり)が甚だしかったためだ。19世紀のなかばに「ラファエル前派」そのほかの芸術上のさまざまな動きからはじまったこの風潮は、いろいろな芸術家の手で本の挿絵(ビアズレーなど)、ガラス器、銀器、家具などにおいて、すべての面でスッキリした曲線をもつものとして(つまり従来の自然主義・アカデミズムのアンチテーゼとして)具象化された。

この風潮はすぐにベルギー・フランスに波及し、エミール・ガレがこの時代思潮にみちたガラス器、ルネ・ラリックは宝石細工に、自然を美しく造形化した作品をいくつもつくった。

こうした作風は、パリの地下鉄の入口のデザインにも取り入れられ、パリの風物詩となった。エッフェル塔も、いかにも近代を感じさせる素材の鉄を用いて、パリの空を斬新な線で切った。

スペインのバルセロナで、いまだ建築中の大教会堂の「サグラダ・ファミリア」などで高く評価されつづけているスペインのガウディーもこのアールヌーヴォーの理念を生かして、これまでの建築物の概念をがらっと変えてしまった天才の一人だ。

絵画やポスターなどの方面で有名なアールヌーヴォー派は、チェコの(当時オーストリアの統治下にあったので、オーストリアのといわれることが多い)アルフォンス・ミュシャの演劇の主催女優の美しさをくっきりした線でえがきだしたポスターは、フランスの名女優サラ・ベルナールらの視線をひきつけ、人びとの非常な人気を集め、オーストリアのクリムトの絵画は、装飾的・官能的な 女性像を多く残した。金箔(きんぱく)を多用した『接吻』と題する新しい絵画は、きわめて華麗な平面的な(ここに当時の日本趣味が底流としてあったことも忘れてはならない)、いままでのアカデミックな絵画とはまったく異なる次元の空間を出現させた。パリのミュージックホールなどのポスターで有名なトゥールーズ・ロートレックの名も落とせない。

こうした19世紀後半から20世紀初頭にかけての時代精神(ドイツ語でいうZeitgeist)は、音楽の世界にもひろがっていき、ドビュッシーやラベルそのほか無数の音楽家に、聴く人々を夢幻の世界、心をこよなく陶酔させるエクスタシーの境地に導く楽曲をつぎつぎと生み出させることになった。

絵画にせよ、音楽にせよ、いままでのアカデミックな世界の創造をめざしてきた芸術家たちは、いっせいに表現の方向を変えていった。19世紀初頭に写真が発明されて多くの画家たちに 「絵画は死んだ!」といわせ、嘆かせた絵画を、写真では描写できない甘美な絵画のみが再現できる世界、古い世の崩壊の予兆をひしひしと実感させる世界を、人々に実感させようと気鋭の画家たちはキャンバスの上に、ポスター類の上に表現しようと考え、工夫をこらした。

音楽家たちも、いままでのアカデミックな世界から人を夢幻の世界に拉しさる曲をつくるようになった。ドビュッシー、ラベルその他 多くの音楽家たちは、いままでの官廷で演奏されてきたような古典的な楽曲ときっぱり縁を切り、一般の人々を音で酔わせるメロディーをつぎつぎに奏ではじめた。

私は、この時代よりやや遅れて登場した日本人画家の佐伯裕三(さえき・ゆうぞう)が、渡仏して、自分の作品をフランスの大画家に見せたところ、“Cet académisme!(何だ、このアカデミズムは!)”と、嘲るように一喝され、愕然とし、時代の変遷を豁然と大悟して、以後その画風を一変させたというエピソードをいつも思い出す。

今回は、ここまでにし、いよいよこの風潮が一体に結集した「バレエ・リュス」について、次回お話ししようと思う。

これこそが、アロマテラピーに深甚な影響を与えた一大イベント、二度と再び世界の人びとが体験することはない空前絶後の芸術のフェスティバルだったからだ。

このフェスティバル (これは、あまりに俗人の手垢がついてしまったコトバなのだが)ないし、近代芸術の「総結集」こそが、現代のあらゆる芸術の母体となった。

私自身の気分をここで一新させ、稿をあらためなければ、このバレエ・リュスについて語り尽くせないことを、なにとぞご了承いただきたい。次回をお楽しみに。