2013年9月24日火曜日

「バレエ・リュス」とアロマテラピー

以上、いろいろな観点から、バレエ・リュスについてのべてきたが、これは、当時のほとんどのヨーロッパの芸術家たちが「芸術のめざすのは、人間の感覚を陶酔させることだ」と信じて、さまざまな作品をものしてきたこと、そして、その一つの象徴的なかたちが、絵画・文学、そしてむろんのこと、その結果、舞踊というものが、その時代思潮をあらゆる方面に拡大延長していった事実を史実に照らして確認したかったからである。

その作品にさまざまな形式で接する人を「陶酔させること」
--それが果たして芸術の真の存在理由であるかどうかは、まさに神のみぞ知るところだろうが、当時の人びとの多くは、ことに芸術家たちは固くそう信じた。

その象徴的なものが、「バレエ・リュス」だった。バレエ・リュスが提出した答えが、人類が古来、営々とつくりつづけてきた「芸術」ないし「芸術的」な作品のただ一つの存在理由に収斂するか否か私には疑問だが、19世紀末から20世紀初期にかけて、多くの芸術家が提出したこの答えにたいして、まだ私たちが明確な一定の反応なり態度なりを示せずにいるということは確かであろう。

さて、第一次大戦後、フランスの領土になったアルザスに移住した、マルグリット・モーリー、本名マルガレーテ・ケーニヒは、やはり外科医の補助をする看護師のしごとをここでつづけていた(アルザスはフランス領といっても、住民はドイツ語〔厳密にはそのアルザス方言だが〕を話していたので住みやすかったとも考えられる。この地方の住民がまるでピュアなフランス語を話していたかのように書いた、フランスの三文右翼作家ドーデの『最後の授業』は、ウソの固まりだ)。

また、よくマルグリット・モーリーは「生化学者」などといわれるが、少なくとも、今日biochemistry(生化学)というタームが意味するものは、彼女が「研究」していたとされるものとは大幅に異なることも知っておいて欲しい。

フランスで、ホメオパシー医のモーリーと知り合った彼女は、モーリーと再婚し、以後自分の名前もフランス風にMarguerite Maury (マルグリット・モーリー)と変え、それからは、ずっとこの名で通した。

ホメオパシー医の夫のモーリーは、中国やインドやチベットの宗教・哲学などにかなり詳しかったとみえ(正確だったかどうかは別問題だ)、マルグリットは夫からその方面の知識を教わった。

また、マルグリットは、はやくも、1835年にフランスで出版された"Les Grandes Possibilités par les Matières Odoriférantes " (芳香物質の大きな可能性)という本を入手し、これをよく読んだ。この本は、フランスのシャバーヌ博士が著したもので、同書は1937年にルネ=モーリス・ガットフォセの出した"Aromathérapie"とならんで、彼女の座右の書となった。また、マルグリットは、神経系に及ぼす精油類の力の研究を行い、これも彼女の「アロマテラピー」理論の基礎となった。
 
マルグリットも夫のモーリーも 、文学・美術(マルグリットの場合は自殺した父からの影響もあったものと思う)・音楽など、芸術一般にともども深い興味を寄せていた。この二人が、アンナ・パヴロワがウィーンで、ベルリンで、ミラノで、パリで時代を画するバレエを発表したことを、またディアギレフの「バレエ・リュス」のエポックメーキングな成果のことをさまざまに語り尽くしことは想像に難くない。

ここに、私はバレエと、総じて芸術とアロマテラピーとの幸福な結婚を見いだすのである。

 
そうしたことが、一体となって、マルグリットは人間の嗅覚・触覚などを、芸術と同様に陶酔させようという、ルネ=モーリス・ガットフォセの考え方とはかなり異なったアプローチで人を美しくし、かつ健やかにすることをめざした独自のアロマテラピーを構築した。精神=神経=心理=免疫といった人体の各機能の不可分の関係に、彼女は直観的に気づいていたのであろう。

まだ、当時の医学界は、そこまでの知識を持っていなかったからだ。

マルグリットは女性として、コスメトロジー(美容術・化粧品学)にも強い関心を寄せ、国際エステティック協会(CIDESCO)に関係し、その会長(現在はこう呼ばないそうだが)に2度も就任した。そして、CIDESCO賞をそのコスメトロジーへの貢献を賛えるということで、これまた2度も受賞した。このことについて、いささかお手盛りの感があると本に書いたら、まるで私がイヤミを言っているかのような非難をした人がいた。私は19世紀フランスの詩人、シュリー・プリュドム[Sully Prudhomme]のことを思い起こしたのだ。プリュドムなどという詩人のことを知っている人間は、日本には仏文学の専門家以外はほとんどいないだろう。彼は第1回のノーベル文学賞受賞者だ。この私も本来はフランス文学専門だから、プリュドムの原詩も、その文章もいくつか読んでいる。しかし、本当に心を動かされる彼の詩句にも文章にも一度もであったことがない。
 
しかし、ロシアの文豪レフ・トルストイといえば、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』、さらには『イワンの馬鹿』などで、文学に親しんだ人なら知らぬものはない。彼の作品は、国境を越えて多くの人の魂をゆり動かし、日本では、白樺派まで結成させた。トルストイはノーベル文学賞を決定する際にはその選考委員に任命されていた。当然のことながら、彼はその受賞者に推挙されたが、トルストイはぴしゃりと受賞を謝絶した。その立場上、当然であったろうが、さる方面からシュリー・プリュドムという、フランス国外ではほとんど知られていないフランスの詩人に、どうあってもこの栄えあるノーベル文学賞第一号を与えようとする政治的圧力があったらしい。ま、こんなことはどうでもよいが、私たちはトルストイの作品に触れるたび、いつも深い感動に包まれずにはいない。
 
マルグリット・モーリーのことで、私にイチャモンをつけた女性[だろう]は、たぶんシュリー・プリュドムの作品はおろか、その名も知るまい。第一、その名前すら正確に発音できまい。
マルグリット・モーリーが受賞したとき、彼女は会長の地位を退いていたが、マルグリットは依然として、CIDESCO内で隠然たる勢力をふるっていた。
したがってCIDESCOが最優秀エステティシエンヌに賞を授与するとなれば、彼女に与えるしかなかったのだ。このことを、マルグリットの弟子だったダニエル・ライマンに確かめたところ、ダニエルは苦笑まじりに肩をすくめ、「仕方なかったんですよ(Que voulez-vous?)何しろ、技術面でも理論面でも彼女に比肩できる女性はいなかったのですから(Elle était sans égale)」と言っていた。 

だから、マルグリットの受賞には「お手盛りの感がある」と私は言ったのである。そのくらいのことは調べてから、人に文句をつけるものですよ、お嬢さん、いやおばさん。

マルグリット・モーリーは、フランスやスイスなどヨーロッパ各地にクリニックを開き、アロマテラピーによる美容法をクライアントたちに施術した。そして、そのかたわら、自分の生徒たちにエネルギッシュに(しかし、何か秘密の宗教でも伝授するように)、自分のアロマテラピーを教えた。
ここに、藤田博士は黒魔術の臭いをお嗅ぎになるのだろう。
 
私が、ロンドンで知り合っていらい友人となっているマルグリットの愛弟子、ダニエル・ライマンが彼女の死後、実質的にそのあとを継ぐことになったが、20歳代半ばの彼女にはクリニックの運営は大変な重荷だったとのことだ。
 
マルグリットの弟子として、その後の英国のアロマラピーの教師になったのは、上述のダニエル・ライマン、ミシュリーヌ・アルシエ、シャーリー・プライスらがいる。とくに、1968年にマルグリットが脳卒中で死去したとき、もっとも近くで彼女を看取ったダニエル・ライマンは、「私はマルグリットの心のこども(マルグリットにはこどもがいなかった)であり、生徒でした。彼女は私の人生のメントール(賢明で信頼のおける助言者)でした」と。繰り返し言っている。

クライアントを感覚を通して陶酔させ、エクスタシーに導くことを主眼としたマルグリット・モーリーのアロマテラピーは、芸術的アロマテラピーというのは言いすぎかも知れない。しかし、私はマルグリットとその夫とが創り出したアロマテラピーは、ある意味で「バレエ・リュス」がメタモルフォーズして生まれ変わったものの一つだと私は信じている。

アールヌーヴォーの衝撃②

沖縄県那覇市・兵庫県明石市でのアロマテラピーの講義とその準備、今後の講演の打ち合わせなどに時間がかかってしまい、執筆が予想以上に遅延したことを深くお詫びいたします。

今回は、アールヌーヴォーを支える精神的な支柱を、バレエという、人間が生み出したもっとも美しい芸術としばしば称される、人間が身体を駆使して、その魂を、その精神を縦横に表現する芸術を、今日の姿に育てあげた功労者の一人、ロシア人、セルゲイ・パヴロヴィッチ・ディアギレフについて語りたい。

ディアギレフは、1872年、ノヴゴロドの近くのペルミの比較的裕福な地方貴族の家に生まれた。母は彼を生んだその3日後に亡くなった。父親の再婚に伴って、当時の首都サンクトペテルスブルクで幼少時代を送り、10歳のとき故郷ペルミに戻った。

継母は彼を実の子のように心から愛した。この継母は莫大な財産の持ち主だった。何不自由ない青少年時代を送ったディアギレフは、1910年に再度上京して、ペテルスブルク大学の法科に籍をおいた。

しかし、彼は法律の授業にはほとんど出席もせず、芸術家を志して作曲・声楽を学び、マリインスキー劇場などで開催される演奏会などに頻繁に通った。のちに創刊する、『芸術世界(ミール・イスクーストヴォ)』誌で、ともに活動するアレクサンドル・ブノア(ロシアではベノアと呼ぶ)、レオン・バクストといった芸術愛好家らとの面々と知り合いになり、芸術談義に花を咲かせた。

しかし、作曲の師であるリムスキー=コルサコフから、「君には作曲の才能が欠如しているよ」と引導をわたされ、声楽も声質が悪かったことから(ピアノ演奏の腕前は相当のものだったらしいが)、みずから芸術家になることをあきらめた。そして、大学卒業後、自分を深く愛してくれた継母を亡くした彼は、継母の莫大な財産を手に入れ、西欧各地を旅行した。

そして、方々で名画を購入し、その展覧会を開催し、1897年以降6回も皇帝一族をその会に招待した。

同年、ブノアやバクストらと『芸術世界』を創刊したディアギレフは、1904年に同誌を廃刊するまで、英国のビアズレー、フランスのモネら西欧の新しい美術やロシアのアヴァンギャルドの画家たちの作品を誌上で紹介しつづけた。ディアギレフらは、さらにこの雑誌で安藤広重や葛飾北斎にいたる幅広い世界の芸術をロシア人に知らせた。これは日本人も知っておくべきだろう。


こうした活動の総決算のようなかたちで、1905年にディアギレフらはサンクトペテルスブルクのダヴリーダ宮殿で、『ロシア歴史肖像画展』を開催し、貴族皇族のコネを利用して、帝室の芸術作品のコレクションおよび全国各地から集めたものを約3000点を展示した。

このとき室内装飾を担当したのが、レオン・バクストだった。このころのロシアは迫り来る革命、日露戦争という内憂外患に悩まされる、ひどい不安定な情勢のもとにあったが、この展覧会には、ロシア帝国の最後の皇帝となってしまった、ニコライ2世をはじめ、多くの人びとがつめかけ、世界の芸術の新風を理解しようとした。

こうした空気がロシア革命直前から1930年代まで続行された「ロシア アヴァンギャルド」芸術を醸成(じょうせい)したことは確かだろうと思われる。

混乱する政治状況のもと、ディアギレフは西欧にロシア文化を大々的に紹介しようと考えた。

1906年に、彼はパリのプチ・パレでロシア人画家たちの大規模な展覧会を開き、これを成功させた。これによって、ディアギレフは、フランスの文化界・社交界と交流するきっかけをつくった。

ついで、ディアギレフは、ロシア音楽をパリで紹介することを計画し、1907年5月に5日間にわたる演奏会では、作曲者ラフマニノフ自身のピアノ演奏(彼はピアノの名演奏家でもあった)による『ピアノ協奏曲第二番』が披露され、さらにリムスキー=コルサコフ、スクリャービン、グラズノフがそれぞれ自作を演奏し、さらにチャイコフスキーの『交響曲第二番』その他のロシア音楽の粋というべき名曲の数々がパリジヤンに紹介され、これまた大成功を収めた。また、彼は世界のオペラ史上に不朽の名声を残したフョードル・シャリアピンによるオペラ『イーゴリ公』の抜粋版を上演させ、シャリアピンを主役にしたモデスト・ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』全幕上演を、パリのオペラ座で実現させた。

パリの聴衆は、バス歌手シャリアピンの比類のない柔らかいバスの美声の歌唱力と、その演技力にひたすら驚嘆した(ちなみに、シャリアピンはラフマニノフの無二の親友だった)。

つぎに、ディアギレフはロシアのバレエをシャトレ劇場で「バレエ・リュス(ロシアバレエの意)」として発表した。ここでは『アルミードの館』、オペラ『イーゴリ公』の第二幕から独立させた『ポロヴェツ人の踊り』、『レ・シルフィード』、『クレオパトラ』などがパリの人びとに初めて紹介され、アンナ・パヴロワ、ヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサーヴィナなど、ロシアでもっとも優れた若手バレエダンサーたちの目を見張る超絶的な舞踏テクニック、演劇的表現力、さらには前述の『ポロヴェツ人の踊り』での、これまでフランス人も英国人もまったく知らなかった男性ダンサーたちの勇壮な迫力に満ちた踊りは、19世紀後半からとくにパリで凋落(ちょうらく)し、腐敗しきっていた「バレエ」(フランスなどのバレリーナは売春婦同然の存在だった)というものしか半世紀近くも知らなかったパリの観客に一大衝撃を与えた。

この男性がバレエで踊るということについて、英国の有名なバレリーナ、マーゴ・フォンテーンが「英国など西欧の男性は、踊ることを恥ずかしがっていたが、ロシアや中東やアジアの男性は進んで踊る。踊りを好む。これが、西欧がバレエにおいて、とくに男性ダンサーに活躍の場を与えず、バレエでロシアに遅れを取った原因だ」という意味のことを語っていた事実が想起される。そういえば、日本人男性もさまざまに祭りの踊りをやるし、日本舞踊の家元はほとんどが男性だ。
マーゴ・フォンテーンは幼少時に父親の赴任地、上海でロシア人男性バレエ教師からバレエの手ほどきを受けていた。

ディアギレフのパリでのバレエ公演は、芸術的には大成功を収め、バレエ・リュスの名声は英国に伝わり、ロイヤルバレエ団を結成させ、米国のニューヨークシティーバレエ団をつくらせるという結果を生んだが、財政的には、ディアギレフはほとんど破産状態だった。(当時はテープレコーダーのようなものなどなく、リハーサル時にもオーケストラ団員に報酬をいつも支払わなければならなかった)。にもかかわらず、ディアギレフは将来の公演に備えて、ラヴェルに『ダフニスとクロエ』の、またディアギレフが発見した新進作曲家ストラヴィンスキーに『火の鳥』の作曲をそれぞれ依頼し、ロンドンに行って、公演会場探しをやったりしている。

彼をそこまで駆り立てたものは、いったい何なのか。金をもうけようなどという気でなかったことは、火を見るよりも明らかだ。

話はちょっとそれるが、バレエ・リュスに参加して、フォーキンが、10分という短時間で振り付けたサン=サーンスの『動物の謝肉祭』の『白鳥』に題材をとった『瀕死の白鳥』を踊って、世界的な名声を得た、20世紀初頭の最高のバレリーナ、アンナ・パヴロワ。彼女も第二の「バレエ・リュス」である。

アンナ・パヴロワは、もとより航空機もなく、鉄道網もおよそ整っていなかった当時、ヨーロッパ各国ばかりでなく、米国、英国、中南米諸国、オーストラリア、インド、東南アジア、日本にまでも足を延ばし、ロシアのバレエを紹介して普及させた。

彼女は実に地球を13周ぶん以上もの距離を旅し、地の果てまで回った。今日、私たちがチャイコフスキーの『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』アダンの『ジゼル』などを観賞できるのも、アンナ・パヴロワとディアギレフとの両人のお陰である。

ただ、この二人の天才は、ソリが合わず、とくにパヴロワはストラヴィンスキーの音楽が大嫌いで、ディアギレフとともに『瀕死の白鳥』などで全ヨーロッパに名を轟かせたのは、ごく短期間であった。

彼女は日本では、1922年横浜や東京などでバレエを披露し、とくにパヴロワの代名詞にまでなった演目、『瀕死の白鳥』は、バレエに初めて接した日本人にも感銘を与え、芥川龍之介は「今日、僕は非常に美しいものを見た」と記しており、また歌舞伎界の六代目尾上菊五郎もパヴロワと芸談に花を咲かせ、パブロワの踊りに感銘を受けた菊五郎は、歌舞伎舞踊の『鷺娘(さぎむすめ)』に、『瀕死の白鳥』の振りをとり入れた。

彼女は50歳代初めに、オランダ公演へ赴く途中で病気に倒れ、手術を拒否して他界した。「白鳥の衣装をもってきて・・・」というのが、熱にうなされたパヴロワの最後のことばだった。

彼女が生きていれば公演するはずだった、オランダの劇場では、オーケストラがサン=サーンスの白鳥の曲を演奏し、投光器がパヴロワが踊ったであろう位置にライトをあて、観客はシーンとしてそれを見守り、曲が終わると万雷の拍手を送ったという。

以後、20年もの間、『瀕死の白鳥』を踊るバレリーナは出なかった。不世出のバレリーナといわれたアンナ・パヴロワと技倆をあからさまに比較されるのを恐れたこともあろうし、フォーキンとパヴロワとが創り出した一種の神聖な空気を犯す涜神(とくしん)的な行為と考えたこともあるだろう。

やがて、ソ連の名バレリーナ、マヤ・プリセツカヤがフォーキンの原振付けを少し変えて、『瀕死の白鳥』を踊り、以後、何人もの有名なバレリーナが、あるいはフォーキンの原振付のまま、あるいはそれをすこし変えて踊り続けている。
ロシアの男性ダンサーのファルフ・ルジマートフも、男性用タイツ姿でこれを見事に踊ってみせている。

話をディアギレフに戻すと、1910年、ディアギレフはバレエ団を再編成し、パリのオペラ座でストラヴィンスキー作曲の新作の『火の鳥』のほか、バレエ用に組曲を改編したりムスキー=コルサコフの『シェエラザード』を上演し、またまた大成功を収めた。

この公演では、ブノワ、バクストらの舞台美術も、フランスの芸術家たちに非常な刺激を与えた。とくに『シェエラザード』は、その踊りもさることながら、アールヌーヴォーの香りを漂わせるその舞台美術、衣装、大道具、小道具は、同時にそのころのパリの人士たちの夢想する「豪奢(ごうしゃ)で、華麗で、神秘的で、エロティックで、残酷なオリエントの世界」に、ひとときなりとも、思うさま浸りたいという思いを十二分に堪能させるものだった。ニジンスキーやカルサーヴィナらの演技がエロティックすぎる、アブなすぎるという非難の声もあがり、退席する観客もいたほどだが、それがまたさらに人気を呼んだりした。

バレエ・リュスのこのエキゾチックな魅力は、フランスの「野獣派(フォーヴィスト)」と呼ばれる画家たち(とくに、マチス、ヴラマンク、ブラックなど)や、またある意味で従来の芸術的な理念、アールヌーヴォーのアンチテーゼ的な観念、アールデコ様式を理想とする人びと(イラストレーターのジョルジュ・バルビエなど)にもまた反面教師として影響を及ぼした。

ロシア芸術は、芸術理念の変容をつぎつぎに生み出していく、きわめて豊穣(ほうじょう)な美田だったのだともいえよう。

こうして、2度のバレエ公演を成功させたディアギレフは、1911年に正式に常設のバレエカンパニー「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」を結成した。ディアギレフは、天才を発見する天才だった。彼は多くのフランス・ロシアなどの優秀な若手の芸術家を動員し、「総合芸術としてのバレエ」という、前代未聞の芸術スタイルを確立した。
三島由紀夫が「軽金属製のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と評したジャン・コクトーも、 バレエ・リュスの脚本作りに参加し、『失われた時を求めて』のプルーストもこのバレエを観賞して「こんなに美しいものを見たのは、生まれて初めてだ!」と叫んだことも付言しておこう。

このバレエ・リュスでは、新進気鋭のミハイル・フォーキンの振り付け作品が大半だったが、天才的な技巧と演技力をもつダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキー(彼の超絶的テクニックの一つを具体的にお話しよう。ニジンスキーは、ピョンと一度飛び上がって、ふたたび着地するまでに、両足の裏を10回、打ち合わせることができた。みなさんも、一度お試しいただきたい)は、新作バレエの振り付けも行った。そのほかの有名な振付師は、レオニード・マシーン、ブロニスラヴァ・ニジンスカ(ヴァーツラフ・ニジンスキーの妹)、ジョージ・バランシンらがあげられ、いずれもユニークな振り付けを競うように行った。

ストラヴィンスキーは、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』、『プルチネルラ』などを作曲し、ラヴェルは『ダフニスとクロエ』、ドビュッシーは『遊戯』、プロコフィエクは『道化師』、『鋼鉄の歩み』 、サティーは『バラード』、レスピーギは『風変わりな店』、プーランクは『牝鹿』など、今日なお私たちの耳になじみ深いたくさんの新進作曲家たちがみな、ディアギレフの求めに応じてバレエ音楽を真剣に創り出した。それまで多くの作曲家は、バレエ音楽というものを軽視、あるいは蔑視(べっし)していた。チャイコフスキーは、例外的な存在だった。それかあらぬかフランス人の多くはチャイコフスキーを平凡な作曲家としかみなかった。

バレエ・リュスの舞台芸術を手がけたものには、ロシア人ばかりでなく、ピカソ、マチス、ローランサン、ミロ、ルオー、ユトリロなどの有名な画家たちがいる。彼らは、そこからまた逆に自分たちの霊感を得たに相違ない。彼らの画風は、このあたりを境にそれぞれ大きく変化していった。

 パリ社交界のパトロンたちや、デザイナーのココ・シャネルらは、バレエ・リュスの活動を金銭的に援助した。公演が成功しても、ディアギレフの手にはほとんど金銭は残らなかった。どう工夫しても、支出のほうが収入を上回ってしまうからだった。

ディアギレフは、新作バレエだけでなく、チャイコフスキーの『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』、アダンの『ジゼル』も上演した。

ディアギレフは、ロシアオペラの上演も何度となく行った。リムスキー=コルサコフの『プスコフの娘』、『五月の夜』、『金鶏』、ストラヴィンスキーの『マヴラ』などがその演目である。

ディアギレフは、1929年にドイツやスイスなどを旅したが、同年の8月19日に持病の糖尿病が悪化して、ヴェネツィアのホテルで死去した。そこに駆けつけたのが、ココ・シャネルとそのポーランド人の女友達、ミシア・セールだった。ディアギレフは、このときほとんど無一文だった。金目のものは、せいぜいカフスボタンぐらいだった。

ココ・シャネルは、たまっていたホテル代を支払い、ミシアと二人だけでディアギレフの野辺送りをした。ディアギレフの遺骸は、ヴェネツィア近辺のサン・ミケーレ島に埋葬された。世界大恐慌のおこる二ヶ月前のことであった。

バレエ・リュスは、ディアギレフの他界によって解散したが、その団員からはバランシンらのように、ロシアのクラッシックバレエの伝統と真髄を英米に移植したものや、バレエ教師となって多くのダンサーを育てたセルジュ・リファールのように、パリ・オペラ座のバレエを復活させるのに貢献したものがつぎつぎと出た。2012年に亡くなったモーリス・ベジャールもこの系統の人物である。極論すれば、ディアギレフとはやばやと決別したアンナ・パヴロワなどは別格として、直接間接にディアギレフのバレエ・リュスの影響を受けなかったバレエダンサーは少ないといってよいだろう。

ディアギレフは、実母が自分を生んだことで死んだり、継母に深く愛されたりしたことが原因しているのかどうかわからないが、(英ソ合作の映画『アンナ・パブロワ』には、そんなことをにおわせるセリフが出てくるが)、ともかく、一生を通じて同性愛者で、女性を愛した経験は皆無だった。したがって、彼の子孫はいない。

彼には、性愛の対象の男性を一流の芸術に触れさせて教育する癖があった。その相手としてもっとも有名なのが天才的バレエダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーである。ニジンスキーのほうは、ディアギレフのような「真正同性愛者」ではなく、ディアギレフとの関係に嫌気がさして、勝手に女性と結婚して、ディアギレフの逆鱗に触れて絶縁されたが、その後もディアギレフはマシーン、リファール、晩年には秘書のボリス・コフノともそうした関係をもった。

そんな関係をディアギレフともったことが原因かどうかわからないが、この天才的ダンサー、ニジンスキーは8年間活躍しただけで引退してしまい、統合失調症(精神分裂病、スキゾフレニア)になり、その後の人生は精神病院をたらい回しにされ、インスリンショック療法を受けつづける痛ましいものだった。そんな彼を妻ロモラは献身的に看病したが、症状は好転せず、1950年、ロンドンで生涯を閉じた。ロモラは『神との結婚』という回想録を書いている。

2013年8月16日金曜日

沖縄県那覇市で講演をします。

沖縄講演会の詳細

http://www.meetsnature.com/seminar/

大タイトル:「誰も言わなかったアロマテラピーの本質」

〜10年後も健康に生きる人へ贈る、75歳の香り知恵袋〜

場所:両日とも沖縄船員会館


2013年08月24日(土) 13:00〜16:00
一般講演「40、50代だからこそ始める植物=芳香療法としてのアロマテラピー」
ゲスト:内科医 大場修治先生
詳細⇒
https://www.meetsnature.com/seminar/day/20130824takayama.html

2013年08月25日(日) 9:30〜11:30
少数対話会「若いセラピストたちへ伝えたいことがたくさんある」
詳細⇒
https://www.meetsnature.com/seminar/day/20130825takayama.html

2013年8月14日水曜日

アールヌーヴォーの衝撃①

19世紀の後半、東方から(ある英国人は、私に、中央アジアのサマルカンドあたりからではないか、となかば真剣に言っていた)、一陣の魔法の風が、ロシア、オーストリア、フランス、そして英国に吹き寄せてきた。そして、この風は大西洋を渡って米国に、さらには極東の日本にも及んだ。

この風は、建築・家具・ガラス工芸・宝石細工・ポスター・挿絵など、人びとの身のまわりのもののデザインにまずあらわれた。

この様式、あるいはそれを生み出した風潮を、まとめてフランス語で《Art nouveau》アールヌーヴォー-すなわち、新しい芸術と称する。フランス・ベルギーのフランス語圏では《Style nouveau,スティルヌーヴォー》、《Style moderne、スティルモデルヌ》とも呼んだ。前者は「新しい様式」、後者は「モダン様式」を意味する。ドイツでは《Jugendstil》ユーゲントシュティル(青春様式)と称した。

各国の貴族社会が崩壊しつつあったこの時代、資本主義はいちだんと発展し、都市化・工業化がヨーロッパ各国で進展した。

各国の芸術家は、工業社会がもたらす醜悪な生活環境に抗議し、新しい酒を満たすのにふさわしい新しい皮袋を創り出そうとした。

しかし、この「魔法の風」は、それにふさわしい不思議な吹き方を幾重にもわたってした。

アールヌーヴォーが最初にあらわれたのは、産業革命が各国に先駆けておこった英国である。それだけ工業社会の空気と芸術との矛盾が、あるいは乖離(かいり)が甚だしかったためだ。19世紀のなかばに「ラファエル前派」そのほかの芸術上のさまざまな動きからはじまったこの風潮は、いろいろな芸術家の手で本の挿絵(ビアズレーなど)、ガラス器、銀器、家具などにおいて、すべての面でスッキリした曲線をもつものとして(つまり従来の自然主義・アカデミズムのアンチテーゼとして)具象化された。

この風潮はすぐにベルギー・フランスに波及し、エミール・ガレがこの時代思潮にみちたガラス器、ルネ・ラリックは宝石細工に、自然を美しく造形化した作品をいくつもつくった。

こうした作風は、パリの地下鉄の入口のデザインにも取り入れられ、パリの風物詩となった。エッフェル塔も、いかにも近代を感じさせる素材の鉄を用いて、パリの空を斬新な線で切った。

スペインのバルセロナで、いまだ建築中の大教会堂の「サグラダ・ファミリア」などで高く評価されつづけているスペインのガウディーもこのアールヌーヴォーの理念を生かして、これまでの建築物の概念をがらっと変えてしまった天才の一人だ。

絵画やポスターなどの方面で有名なアールヌーヴォー派は、チェコの(当時オーストリアの統治下にあったので、オーストリアのといわれることが多い)アルフォンス・ミュシャの演劇の主催女優の美しさをくっきりした線でえがきだしたポスターは、フランスの名女優サラ・ベルナールらの視線をひきつけ、人びとの非常な人気を集め、オーストリアのクリムトの絵画は、装飾的・官能的な 女性像を多く残した。金箔(きんぱく)を多用した『接吻』と題する新しい絵画は、きわめて華麗な平面的な(ここに当時の日本趣味が底流としてあったことも忘れてはならない)、いままでのアカデミックな絵画とはまったく異なる次元の空間を出現させた。パリのミュージックホールなどのポスターで有名なトゥールーズ・ロートレックの名も落とせない。

こうした19世紀後半から20世紀初頭にかけての時代精神(ドイツ語でいうZeitgeist)は、音楽の世界にもひろがっていき、ドビュッシーやラベルそのほか無数の音楽家に、聴く人々を夢幻の世界、心をこよなく陶酔させるエクスタシーの境地に導く楽曲をつぎつぎと生み出させることになった。

絵画にせよ、音楽にせよ、いままでのアカデミックな世界の創造をめざしてきた芸術家たちは、いっせいに表現の方向を変えていった。19世紀初頭に写真が発明されて多くの画家たちに 「絵画は死んだ!」といわせ、嘆かせた絵画を、写真では描写できない甘美な絵画のみが再現できる世界、古い世の崩壊の予兆をひしひしと実感させる世界を、人々に実感させようと気鋭の画家たちはキャンバスの上に、ポスター類の上に表現しようと考え、工夫をこらした。

音楽家たちも、いままでのアカデミックな世界から人を夢幻の世界に拉しさる曲をつくるようになった。ドビュッシー、ラベルその他 多くの音楽家たちは、いままでの官廷で演奏されてきたような古典的な楽曲ときっぱり縁を切り、一般の人々を音で酔わせるメロディーをつぎつぎに奏ではじめた。

私は、この時代よりやや遅れて登場した日本人画家の佐伯裕三(さえき・ゆうぞう)が、渡仏して、自分の作品をフランスの大画家に見せたところ、“Cet académisme!(何だ、このアカデミズムは!)”と、嘲るように一喝され、愕然とし、時代の変遷を豁然と大悟して、以後その画風を一変させたというエピソードをいつも思い出す。

今回は、ここまでにし、いよいよこの風潮が一体に結集した「バレエ・リュス」について、次回お話ししようと思う。

これこそが、アロマテラピーに深甚な影響を与えた一大イベント、二度と再び世界の人びとが体験することはない空前絶後の芸術のフェスティバルだったからだ。

このフェスティバル (これは、あまりに俗人の手垢がついてしまったコトバなのだが)ないし、近代芸術の「総結集」こそが、現代のあらゆる芸術の母体となった。

私自身の気分をここで一新させ、稿をあらためなければ、このバレエ・リュスについて語り尽くせないことを、なにとぞご了承いただきたい。次回をお楽しみに。

2013年8月6日火曜日

Der Lindenbaum(リンデンバウムの歌)

Der Lindenbaum(リンデンバウム)の歌

(ドイツの詩人、ヴィルヘルム・ミュラーの『冬の旅[Winterreise]』 と題する連作詩の一つ。シューベルトがこれに1827年に作曲し[全24曲]、失恋した青年のあてどもない冬の放浪の旅と、その荒涼たる心象風景を描き、詩と音楽、歌とピアノの伴奏とがみごとな一体になった表現で、ドイツ歌曲[リート]の頂点の一つになっているもの。日本でもかなり以前から『菩提樹(ぼだいじゅ)』の訳題で、ドイツ民謡のひとつとしてひろく親しまれてきた)


Am Brunnen vor dem Tore, 市外の門の噴水のそばに
Da steht ein Lindenbaum: リンデンバウムが一本立っている。
Ich träumt’ in seinem Schatten 私はその木陰でたくさんの
So manchen süßen Traum. 甘い夢をみたものだった。

Ich schnitt in seine Rinde 僕は、かずかずの愛のことばを
So manches liebe Wort; その木の皮に彫ったものだった。
Es zog in Freud und Leide 嬉しいとき、悲しいとき、
Zu ihm mich immer fort. いつも、ひとりでに足がそこにむかった。

Ich mußt’ auch heute wandern 今日は、真夜中に木のそばを
Vorbei in tiefer Nacht, 通らなければならなかった。
Da hab’ich noch im Dunkel それで、暗闇の中だというのに
Die Augen zugemacht. 目をひたと閉じてしまった。

Und seine Zweige rauschten, すると、枝々がざわめいて
Als tiefen sie mir zu: 僕に呼びかけるような感じがした。
Komm her zu mir, Geselle, 「私のところへおいで、若者よ、
Hier findst Du Deine Ruh’! ここがお前の憩いの場なのだ!」

Die kalten Winde bliesen 冷たい風がまっ正面から
Mir grad in’s Angesicht; 僕の顔に吹きつけた。
Der Hut flog mir vom Kopfe, 帽子が頭から飛んでいった。
Ich wendete mich nicht. でも、僕はふりむきもしなかった。

Nun bin ich manche Stunde いま僕は、あの場所から
Entfernt vom jenem Ort, 何時間も離れたところにいる。
Und immer höt ich’s rauschen: しかし枝のざわめきがいつまでも耳から離れない。
Du fändest Ruhe dort! 「ここがお前の憩いの場なのだ!」

私は日比谷高校時代、音楽の時間に教師からドイツ語を教わり、シューベルトの『冬の旅』やシューマンの『詩人の恋』(詩はハイネによる)などを、原語で一人一人きっちり歌わせられた。

暗くて重い感じの曲ばかりで成る『Winterreise(冬の旅)』24曲のなかでは、比較的明るい曲調に入るものだが、ホ長調、四分の三拍子で、第2節が短調となり、第3節では旋律が大幅に崩される変奏有節形式で、やはり暗さが感じられる。しかし、これはシューベルトの歌曲のなかでも、もっとも有名なものであろう。

日本でもかなり昔から近藤朔風の名訳詩によって、人びとにひろく親しまれた。たぶん、日本語の高低アクセントをあまりむりなくメロディーに合わせたためかと思う。

しかし、「風が吹いて帽子が飛んでいったが、ふりむきもしなかった」のところが「笠は飛べども捨てて急ぎぬ」となっているのは、なんだか広重の東海道五十三次の宿場の図を思わせて、何となくおかしい。 

この『冬の旅』は、1827年、すなわちシューベルトの死の前年に作られたものだ。彼はチフスのせいで翌年31歳で夭折(ようせつ)している。

一夜、友人たちと夕べをすごしたシューベルトは、「これから、諸君に恐ろしい歌を聞かせる」と前置きして、この冬の旅をみずからピアノ演奏して歌い、友人たちに初披露した。

一同は、その各曲の内容のあまりの暗さに惨として声なく暗澹たる気持ちのままで、シューベルトの家をあとにしたという。

西洋音楽史上、燦(さん)として残るこの歌曲を作曲者みずから歌い、伴奏するのを己の耳で聞く、まさにこの上ない「特権的なとき、至福のとき」だったのに。……

ところで、この曲に登場する樹木Lindenbaumは「菩提樹」と訳されてきたが、これは正しくない。

リンデンバウムは、セイヨウシナノキ(Tilia cordata[コバノシナノキ・別名フユボダイジュ])と、T.platyphyllos[ナツボダイジュ]との交雑種)で、英名はlinden[リンデン]、lime[ライム](この名はカンキツ類のライムとまちがえやすいので要注意)、フランス語ではtilleul[ティユル]という。

菩提樹は、釈尊がその下で悟りを開いたとされる木、無憂樹は釈尊が生まれた近くに生えていた木といわれ、また沙羅双樹は、その下で釈尊が入滅したという木で、これが仏教の三大聖樹である。このボダイジュは、リンデンバウムとは全く関係ないクワ科イチジク属の樹木(Ficus religiosa)である。インドボダイジュ、テンジクボダイジュとも称する。

英語では、bo-dhi-treeという。このbo-dhiは、サンスクリット語。中国語で菩提と表記する言葉を写したもの。ちなみに英語のbodyも同じ語源に由来している。


日本特産のシナノキ(Tilia japonica)は、アオイ科シナノキ属で、これもリンデンバウムとはかなり植物学的に離れた存在である。

リンデンバウムは、中世以来、男女の愛を結ぶ木とされ、中世ヨーロッパの恋愛詩、ミンネザングでは、この木とその梢で歌う可愛い小鳥たちは、恋愛に欠かせぬ点景となった。

リンデンバウムは人びとに愛され、道路の並木にされ(ベルリンのウンター・デン・リンデンの大通りを想起されたい)、人名でもリンダ、リンドバーグ、リンネなどはすべてここから来ている。

リンデンバウムの葉を生のまま、あるいは干したものをひとにぎり、1リットルのお湯に入れて、15分くらい煎じたものを1回に2~3回に分けて飲用すると、夜ぐっすりと眠れ、動脈硬化、心筋梗塞、狭心症の予防に効果がある。日本でもハーブショップなどで市販されている。

リンデンバウムの花は、はちみつの蜜源としても有名である。

 

2013年8月1日木曜日

閑話休題

月日のたつのは速いもので、私の著書『誰も言わなかった、アロマテラピーの《本質:エッセンス》』が出て、すぐ発売停止処分になって3ヶ月近くになった。

私の本をAmazonと楽天とで買ってくださった方がたの大半は、私の所論に「痛快だった」「爽快だった」といったことばとともに、双手をあげて賛成してくださった。

まず、マトモな人間なら、当然そうあるべきである。ごくごく一部のバカどもと覚(おぼ)しい、IQの低い奴らが、この私にたいする尊敬の念が失せたとかなんとか言っていたが、私としては願ったり叶ったりだ。

バカ、ヤクザ、ゴロツキ、横っちょからよけいな口を出す利口ぶった奴らに尊敬などされるのは、迷惑千万だからだ。

私 の好きな明治人、欠点だらけかも知れないが、親しみを感じないではいられない明治の男の一人に、ジャーナリスト、黒岩涙香(くろいわ・るいこう)がいる。 『巌窟王』、『噫無情』、『白髪鬼』などの翻案者としても有名な、私が中学生ごろからの大ファンになっている明治の人物である。

涙香は『万朝報(よろずちょうほう』という政府高官のスキャンダルをあばくことを売り物にした新聞を1892年に創刊し、大いに人気を博した。社員に幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦がいて、健筆をふるったことも有名な話だ。

その黒岩涙香の一文に接し、胸に迫るものがあったのでご紹介したい。

「……凡(およ)そ新聞紙として、我が萬朝報の如く批評さるるものは稀なり。而してその批評の多くは悪評なり。曰く毒筆、曰く嫉妬、曰く脅迫、曰く某々機関。若(も)し萬朝報を悪徳の新聞とせば、萬朝報は以後も斯くの如き悪徳を貫きて止まざるべし。
萬朝報は戰はんが爲(ため)に生まれたり。
萬朝報は何の爲に戰はんと欲するか。吾人自(みずか)ら敢(あ)えて義の爲と言ふが如き崇高の資格あるに非(あら)ず。然れども斷(だん)じて利の爲には非ざる也(なり)。

萬朝報が人身を攻撃する事有るも、未(いま)だ悪を責む、悪を除く以外の心を以(もっ)て人を責めたる事無し。有體(ありてい)に言ふ。萬朝報は悪人に對(たい)しては極端に無慈悲也。悪の改むべからざるまでに團結(だんけつ)したるものと見(み)ば、ただこれを誅戮(ちゅうりく)するを知りて宥(ゆる)すを知らず。特に權門(けんもん)の醜聞に於いて、吾人は露程も雅量なし。

我が手に斧鉞(ふえつ)あり。我が眼に王侯無し。況(いわん)や大臣に於いてをや。」
涙香は、一度ネタに食いついたら離さないというところから、「蝮(まむし)の周六」とあだなされた。
周六は涙香の本名である。

 昔日の遊郭における幇間(ほうかん[たいこもち])のように人の機嫌をとるのはラクである。しかし、マムシの周六ほど、いわゆる権門の輩(ともがら)に憎まれるのは、難しかろう。

私はべつにジャーナリストでもなく、人が自分の金を女道楽に使っても、べつにどうとも思わない。ただし、その金が人民から搾りとった膏血だったら話はべつだ。そのときは、涙香を師と仰ごう。

私が何十年も訳業に明け暮れていたときは、原著者のいわんとするところを過不足なく、品のよい口調で、原著者の言語にふさわしいことばを選んで表現することに腐心した。

だ が、おのれのことばで、自分の考えを文字にするとなれば、自分を偽ることなくさらけだして何が悪い。むしろ、それは私はおのれの義務と考える。「ことばが キツすぎる、ロコツすぎる、そこまでいわなくても云々……」。ふふふ、悪うござんしたねえ。でもね、あっしはもともと、隠しだてはきらいなんでござんす よ。そのおつもりでいておくんなせえやし。

マムシの周六先生には及びもつかねえ、しがねえ野郎でござんすがね。周六先生のマネゴトぐらいは、させてやっておくんなせえ。

2013年7月29日月曜日

塩田清二著 ≪香りはなぜ脳に効くのか≫続き

前回は、塩田清二氏の上記の書物の「まえがき」について感じたところで紙数が尽きてしまい、中途半端なものに終わってしまったことを、お詫びしたい。

さて、前回にのせた感想と同じことを、NHK出版の大場編集長にお伝えしたところ、塩田氏は、たとえこの療法がルネ=モーリス・ガットフォセが「アロマテラピー」と名付けようと、自分は医療という意味を強調したいので、あくまでもアロマセラピーと称し続けるとおっしゃっていた、と大場氏からお話があった。

だだっ子のような人を相手にしてもしようがないと思ったが、やはり正しいことをお知らせするのが私の義務だと感じた。

しかし、これはまず塩田氏の認識不足からきていることは、同書61ページにこうあることからはっきりわかる。

「みなさんは、アロマセラピーという言葉を頻繁に耳にしていることでしょう。(私はアロマテラピーという言葉のほうを、より頻繁に聞いたり、見たりする が―高山)。

aromaとはギリシャ語で香りや香辛料の意味で(これは誤り。aromaはもとをたどればギリシャ語にまでさかのぼるが、ルネ=モーリス自身はこれをラテン語とはっきり認識していた―高山)。

セラピーは治療のことです(ギリシャ語にセラピーなどという語は存在しない―高山)。精油を用いた治療法を確立・体系化したフランスの化学者ルネ・モーリス・ガットフォセ(原書ママ)(1881-1950)が、この二つの言葉を合成して創り出しました。現在では、アロマセラピーとは『精油を薬剤として用いた医療』というのが、一般的な定義になっています」。


René-Maurice Gattefosséが創り出したのは、ギリシャ語をもとにしたラテン語で芳香・香辛料を意味するaroma(アロマ)と、同じくギリシャ語のhealingの意味に由来するtherapeia(テラペイア)とを合体させたものであり、どうしてもアロマテラピー(正しくはarɔmaterapi と発音する。日本語のように“l” “r”とを同じに発音する言語と違い、“r”は、舌背を高くした破擦音で出すが、口蓋垂をふるわせるかして発し、théはどうあっても、テ[te、厳密にはつぎにraがくるので、やや口をひらいて tɛと発音するフランス人が多い]でないとおかしい。なぜ、著者はここでいちおうアロマテラピーとしておいて、私はこれこれの理由で、わざわざこれをアロマセラピーと英語読みすることにしますと、そうするわけをここで詳しく説明しないのか。いや、できないのか。

relaxation は、大場編集長によると、塩田氏からこれを「リラクゼーション」と説明する理由はついになかったとのこと。人間は「リラックス」する。その名詞形は「リラクセーション」だ。「リラクゼーション」だとあくまでこだわられるなら、その動詞は「リラックズ」ということになり、さしずめ人間の「クズ」が行うことだろう。

65ページ

「たとえば、サンダルウッド(白檀)の主成分であるα‐サンタロールについて、経鼻吸収した場合と経皮吸収した場合の作用を比較すると、経鼻吸収では興奮作用、経皮吸収では鎮静作用という、正反対の作用を示したという報告があります」。
 その参照資料名をなぜ記載しないのか。いったいいつの研究なのか。私がこれにこだわるのは、ほんもののインド・マイソール産のサンダルウッド油は、現在ではまず入手不可能だからだ。ニセモノのサンダルウッド油での研究結果など不要。ここをはっきりさせてほしい。この本のうしろに載せてある精油会社のサンダルウッド油は、さまざまな意味で、すべてニセモノだ。

76ページ
ルネ=モーリス・ガットフォセがアロマテラピー(塩田氏のいうアロマセラピー)の研究にのめりこむようになったきっかけは、1910年の実験室での爆発事故でした。

とあるが、ルネ=モーリスの孫娘夫妻に確認したところ、この事故は、1915年7月15日のことだったとはっきりわかった。訂正をお願いする。

この日は、 ルネ=モーリスの最初のこどもが生まれる日で、彼も冷静さを欠き、このような事故をおこしてしまったとの話であった。

しかも、身近にラベンダー油を入れた容器などなく、ルネ=モーリスは上半身火だるまになって研究室からとびだし、芝生の上をころがりまわって火を消した。しかし、ひどい火傷を左手、頭部、上背部に負ってしまった彼は、病院にかつぎこまれ、3か月もの入院を余儀なくされ、ずっと医師からピクリン酸による治療をうけていた。

しかも、患部は壊疽化し、ガス壊疽化したとのことだ。

この段階で、はじめてルネ=モーリスはラベンダー油の使用に想到し、それによって一定の効果が得られた(この点、いろいろ疑問が残るが)。事実をしっかり確認して、(調べればわかることなのだから)お書き頂きたい。

医学の知識のない彼が、この療法を体系化し、確立したなど、とんでもない話である。

だいたい、アロマテラピー(塩田氏のアロマセラピー)などということばを一目見ても、これが医学・薬学・比較病理学などとはまったく無縁の、(しいていえば、ぐらいのところだろう)香料化学者・調香師程度の人間、塩田先生のような医学的な知識の塊のような方とは縁もゆかりもない人間の造語だとすぐわからなければヘンである。