2013年10月17日木曜日

人間の体臭について

ジャン・バルネ博士は、著書にこう書いている。

「芳香浴というものを、当世風の補足的な発明のように考えるのはまちがっている。
事実、芳香浴はいつの時代にも人びとの人気を得てきたのである。

しかし、フランスでは衛生とおしゃれの基本的な観念の欠如から、そうしたことが行われず、不当に判断されてきた時代がいくつかあったことは確かである。

それは14世紀[ルネサンスの時代]、ついでアンリ四世[16~17世紀はじめ]の治世であった。ぞっとするような汚い『善良王(ボン・ロア)』のこの時代は、とくに垢(あか)とノミ・シラミの治世であった。人びとはボリボリ自分の体をかいて体をきれいにし、美女は墓場[フランスでは土葬である]のような悪臭をさせ、貴族たちは『腋の下を少しすえ臭くし、足をむっと臭くしていた』。

ルイ一四世の時代も同様だった(何という幻滅だろう!)」。


そういえば、ミラノ公国のスフォルツァ公に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチは、この宮廷で美女の絵を描いたりイベントで貴族たちを楽しませたりしていたが、彼は、主君スフォルツァ公に、「みんなが飼っている動物で、死ねば死ぬほど嬉しくなるものは、何でございましょう」というナゾをかけたりした。答えは「シラミ」である。ルネサンスのころのイタリアのいろいろな宮廷、宮殿などの貴紳、美姫たちもフランスと同様、垢だらけで、ノミ・シラミの跳梁(ちょうりょう)に身を委ねていたに相違ない。今日のように、人びとは、貴賎を問わず、沐浴、シャワーなどで体を洗うことがなく、むっとした体臭を発していた。

日本でも、光源氏も紫の上も(これはフィクション上の人物だが)アバタづらで、むっと体臭をあたりにふりまいていたかと考えると、ゲッソリするのと同じことだ。でも、今日の感覚でむかしの人を論じてはなるまい。

ただ、『竹取物語』のかぐや姫が、 テレビドラマの水戸黄門に登場する美しい女優のように入浴するシーンを披露するとなれば、ちょっと見てみたいという男性は少なくないだろう(私は別ですよ)。

しかし、あの本を何度読んだって、彼女が竹から出現して以降、月に帰るまで、一度も沐浴したという記述がない。さぞ、臭かったでござんしょう。

でも、江戸時代になると、日本人の多くはひんぱんに沐浴するようになる。考えてみれば、日本ではそのむかしでも温泉がたくさんあったのだから、これを利用した人びとはかなりいただろう。当時、世界一の人口を抱える都市だった江戸には銭湯がたくさんできて、江戸っ子は、乞食以外は毎日、沐浴をした。

電燈などおよそない、薄暗い浴場だったから、男女が混浴したころもあった。石けんがない時代で、人びとはぬか袋で体をこすって洗った。どの程度の洗浄効果があったのだろう。

江戸時代の日本人は、清潔好きだった。反面、人前で肌を見せるのは平気だった。東京・新宿に四谷見附(よつやみつけ)という、役人が常駐する番所があった(もちろん、見附は江戸四方にたくさんあったが)。この番所は、もとより将軍様のお膝元に怪しい人間が近寄らぬように当局者が目を光らせているところだが、男がすっぱだかでこの番所を通っても、その男が肩に一枚、手ぬぐいを載せているかぎり、役人は何もとがめずに、江戸の御府内に通した。いまでは、こうはいかないだろう。

私が中学生ごろまで、電車の座席で乳児に乳房をあらわにして乳を与える女性はザラにいたし、男もさっぱり目をくれなかった。暑い夏には、通行人など気にもせずに平気で女性もたらいで水浴びをしたし、それをとやかくいう人間など、誰ひとりいなかった。

私の小学校の頃の同級生など、六年生のとき、同じクラスの女の子の家に遊びに行き、同じ部屋で一緒に寝たそうだ。このことを、どちらの親も、何一つ問題視しなかったし、事実、何事もおきなかった。現在だったら、絶対に、親はこんなことは許さないだろう。

いまの時代は、インフラは整備され、水洗トイレはいきわたり、人びとの衛生観念も発達した。私がこどものころは、男も女も平気で立小便をした(若い娘はさすがにそんなことは人目につくところではしなかったが)。

しかし、私は思う。確かに環境はきれいになり、人びとの暮らしは「衛生的」になった。

でも私たちは、衛生的に進歩して本当にキレイになったのだろうか。人工的なにおい、香りで天然のものを隠し、私たちの本能を人為的に麻痺させてしまっている。これが、人間として、本当にあるべき姿なのだろうか、と。

また、欧米人のマネを一から十まですることが、すべて正しいのだろうか。

アロマテラピーは、人間の感覚(それも複数の)を陶酔させ、人間の心身を自然なかたちで健やかに導く方法である。だとしたら、日本人は、日本人向けのアロマテラピーを創造し、私たちの感覚にマッチした、そして私たちの心身の真のありようを考えるべきではないだろうか。

日本人はヨーロッパ人と同じ服装をすることはできる。でも私たちの長い歴史がつちかってきた精神と感覚まで欧風にする必要があるだろうか。また、できるだろうか。ましてや
肉体の中身まで、腸の長さまで100%ヨーロッパ人なみにすることなどできようはずもない。

このことをもう一度考えてみよう。

2013年10月8日火曜日

精油(エッセンス)の効果と作用④

そのほかにも、さまざまな作用が精油にはある。
たとえばラベンダー油には、癒傷作用がある。これは、ルネ=モーリス・ガットフォセが「アロマテラピー」に想到するよりも、ずっと前からラベンダー油を香料会社の工場に納入していたフランスの農民たちが発見していたことだ。

しかし、なぜ真正ラベンダー油が傷をなおす力を発揮するのかは、いまだに科学的に解明されていない。だが、このことをルネ=モーリス・ガットフォセが世にひろく知らせていらい、アロマテラピーを学ぶものは、イの一番にこの精油の鎮静作用とともに、これの癒傷作用を知ることになる。そして、その無数の例があげられている。

だのに、その作用機序はいまだにはっきりわかっていないのだ。ラベンダー油に含まれる各種成分とビタミンCとが相乗的に働くためではないかという仮説を提出している学者もいるが、これも確かなわけではない。日本の各種アロマ協会のいろいろな金儲け目的のテストにも、このことはその試験問題として出たためしは一度もない(これにまっこうから答えられる「先生」方は、おいでにならんでしょう。ふふふ)。

ガットフォセは、アロマテラピーでは、テルペン類を除去した精油を使うように勧めている。今日、英国などのいわゆる「ホリスティックアロマラピー」の関係者が声高(こわだか)に叫んでいること、すなわち「脱テルペン精油は、天然自然から遠ざかった存在だ(だから、治癒力が乏しい)」という主張、あるいはジャン・バルネ博士の「トータルな精油を信頼しよう」という信念と、およそ正反対の考え方である。多くのアロマ関係者は、このことに触れたがらないが、私は敢えてこれに言及しておく。

ガットフォセは、精油はできるだけ精製した精油、いってみればホール(Whole)なもの、とはまるきり反対の精油を使わなければ、精油の効き目は期待できず、精油を用いた治験で多くの医師が失敗の苦汁を味わってきた理由はここにあるとガンコに言い張っている。このことを現代の私たちが完全に否定しきれるかどうかが問題だろう。

彼が医学的知識に暗かったせいだというだけでは、本当の反論にはならない。ルネ=モーリスの会社が製造していた精油が脱テルペンしたものだったことを、そう言って正当化しようとしたのだろうといっても想像の域をでない。きちんと医学的・化学的にじっくりと、それが正しいか否かを考察する必要があるだろう。

ルネ=モーリスの主張を肯定するにせよ、否定するにせよ、このことは重要な作業である。

ガットフォセはさらに、多くの脱テルペン精油(真正ラベンダー油を含めて)は、ベルガモット油にどんどん近い存在になるとも言っている。

だとすれば、現在、アロマテラピー関係者が、製造したり販売したりしている精油の多くは存在理由がなくなってしまうことになりはしまいか。ルネ=モーリスのこの考えは、果たして正しいだろうか。

ユーカリ油やカンファー油などのいくつかの精油は、呼吸器系に明瞭な効果をもたらすことは、すべてすでに科学的ないし医学的に説明がついている。

かんたんに言えば、その精油成分が呼気・吸気の通路を塞ぐ状態の余分な水を抑制し、気道を拡大させて局所的に効果をあげることで、呼吸をらくに行えるようにするからだ。

日本では、大正製薬という会社から『ヴィックスヴェポラッブ』という指定医薬部外品(塗布剤)が出ている。これは、ユーカリ油、カンファー油、l-メントール、 杉葉(さんよう)油などが配合されており、これを胸部、頸部、背中に大人の場合、1回につき6~10g(小児ならもっと少なめに)をすりこむと、体温で精油成分が蒸散して鼻腔・口腔から(精油の一部は経皮吸収もされるだろう)呼吸器に入って、かぜ・インフルエンザ・喘息などで気道がせばまって苦しい症状を大幅に緩和できる。

カンファー油のような精油はまた、リウマチ性の疾病や関節炎その他の炎症を生じた部分に局所的に適用する。10mlのホホバ油に精油を3~4滴まぜて皮膚にマッサージしながらすりこむと、炎症を鎮め、痛みを和らげることができる。これも、科学的に説明がつく。

2013年10月4日金曜日

精油(エッセンス)の効果と作用③

抗ストレス作用。たぶん、いろいろな精油を通じて、いちばん著明にみられる作用ではないかと思う。この効果はたぶん大脳辺縁系そのほかの大脳中の諸部分を通じて発現するものと私は考えている。

精油のこの効果はCNV(随伴性陰性変動)その他に示され、脳のある部分はリラックスし、ほかのところは刺激を受けて励起していることがわかる。

マッサージ自体、リラックス効果があることがよくわかっている。心身をリラックスさせる力をもつ精油をこれに組み合わせて用いると、十分な抗ストレス作用が期待できる。
これは、私自身、知り合いの女性セラピストにそのような精油を使って施術してもらったことがあるので、その経験から、よく納得できる。

ストレス(肉体的・精神的)は、いずれも身体のなかに蓄えられているエネルギーならびに中間代謝システムに、ホルモン(アドレナリン効果)および第二次メッセンジャー物質、そして同様の効果を示す各種効果を通じてショックとか恐怖心・闘争本能とかといったものをひきおこす。

この後者は、とくに心拍を亢進させ、体液の循環を促進し、さらにそれとともに襲ってくる恐れのあるものに即座に身体と精神との双方をさっとスタンバイさせる。そうした刺激が消失するとすぐに、体内のプロセスは正常な状態に復する。

しかし、そのようなストレスがずっとつづくと、身体はコンスタントに用心し警戒しつづけなければならない状態におかれることになる。すると、私たちの精神にはパニック発作、問題を直視せずに「ひきこもる」気持ち、うつ状態などが生じ、それと関連した肉体的症状(高血圧、喘息、乾癬、心悸亢進、神経の緊張、神経の極度の疲労、神経衰弱など)が発症するとともに、感染症などにたいして肉体が本来有している、抵抗力も大幅にダウンしてしまう。

したがって、ストレス要因を軽減ないし除去すれば、ストレスに関連しておこる疾患の、少なくとも一部はなおせるということになる。しかし、そうした精神の興奮を十分に鎮静させるには、適当な精油(たとえばラベンダー油など)のみの使用だけでなく、あわせてライフスタイルを変化させるとか、食生活を変えるとかいったほかのファクターも十分に考慮に入れることを忘れるべきではない。

精油類は、あるいはアロマテラピーは、決してそれのみで万能の力を発揮するものではないことを常に念頭において頂きたい。

2013年10月1日火曜日

精油(エッセンス)の効果と作用②

ゼラニウム(Pelargonium ssp.)をはじめ多くの植物の精油には、平滑筋を刺激する働きがあるとされる。そのために、これらの精油のいくつかは胃腸によく効き、その働きを活発化する。これはさまざまな、動物実験で確かめられている。

しかし、人間を対象として実験した場合、こうした効果をもつとされる精油類をキャリヤーオイルで適切に稀釈して胃腸の部分にマッサージした場合、これにより症状が著明な改善をみたというエビデンス(はっきりした根拠・証明)は、いささか少ないのが実情である。

しかし、フランスのアロマテラピーを実践している、少なからぬ医師は、これらの精油を、連日15mlもの量を未稀釈で患者に経口摂取させたり、直腸から直接血液中に入れたりして好結果をみたと報告している。

しかし、英国の研究者・医師などの多くはこの報告自体を疑問視しており、in vivoで、つまり生体内ではもっともっと精油は薄めなければ危険だとしている。

マリア・リズ=バルチン博士は人間の回腸内などでは20万分の1以下の濃度に稀釈しても、これらの精油は活性を示すと警鐘を鳴らしている。

こうした点が英国とフランスとのアロマテラピーの差の一つなのであろうが、精油の経口摂取に関しては、私はこう考えている。

①人間は、そんな高濃度の精油を稀釈しないで飲んだ経験が、人類誕生以来700万年間ないことから、人間の身体は、それをうまく受け入れ、かつ代謝して排泄するようにはなっていない。

②それに関連して思うのは、このことは精油のみならず、ビタミン剤、ミネラル剤とくにサプリメント類なども含めてあてはまり、こうしたものが含有する栄養分は、やはり通常の食品からさまざまな夾雑物を含めたかたちで摂取するのがもっとも自然で健康的な方法であろうということである。

精油(エッセンス)の効果と作用①

みなさん、アロマテラピーに関心をお寄せになるかぎり、精油のことを考えない日はないと思う。そこで、私自身、ここで初心に立ち帰って、再度、精油(ないし、エッセンス)について検討してみよう。

精油は、疾病を治癒させる力が、どの精油・エッセンス類にもかならずあるか。

答えは残念ながら「ノー」だ。治癒させる力が皆無というのではない。精油の一部に、ときとしてそういう力を発揮させるものがあり、それらを適切に用いてはじめて所期の目的を果たすケースがある、といっておくのが無難である。

精油類を使用しても、各種のガン、そのほかの重い疾患をいやすことは、いまのところ不可能だ。アロマテラピーは、魔術でも魔法でもなく、何か奇跡のようなことを行う治療法でもない。

精油、エッセンスの有する治癒力は、まず第一にそれらがもつ「抗微生物作用」 にある。

抗微生物作用。すなわち、細菌・ウイルス・真菌の増殖を抑えたり、それらを死滅させたりする精油、エッセンスの種類は多く、これまで各種の疫病・伝染病が、これらの力によって防がれ、またそれによって傷のなおりも促された事実がこれまでに厳としてある。

ジャン・バルネ博士が、インドシナ戦争(第一次ベトナム戦争)の際に、未稀釈のティートリー油を傷病兵にたいして局所的に体表に使って、見るべき成果をあげたというが、私はこれは信じてよいと思う。

ティートリー 油は、インドシナ半島から程遠からぬオーストラリアですでに対日戦時に用いられていて効果があったことは、バルネ博士も軍医として知っていたであろうし、これをフランス側に立ってベトナム人の独立を圧殺しようとしていた米国のほとんど属国化していたオーストラリア・ニュージーランドからとりよせることは、比較的容易だったはずだからだ。

しかも、ティートリー油は、ほかの各種の精油と異なり、香料とか香水などの原料として利用されないので、よけいな(しかも人体に危険性を示すかも知れぬ)化学増量剤などを含まず、100パーセントピュアなものであった。そうした精油には、ユーカリなどもあげられる。

ジャン・バルネ博士自身も、この戦場で(インドシナ半島)、何と何との精油を使用したか明確に記していない(これは、博士も医師として不誠実のそしりを免れまい。守秘義務なんてあるわけもないからだ)。
なお、バルネ博士が第二次世界大戦中からアロマテラピーを実践したかのようにいうものもいるが、実際にはこのインドシナ戦争からである。


しかしまた、一部のアロマテラピー関係者が主張するように、たとえばキャリヤーオイル10mlのなかに1~2滴だけ精油を入れてこれを稀釈し、これを患者の全身にマッサージして、その患者の体内の組織・器官に侵入し、感染症を起こした細菌、その他の微生物類にその効果を十分に発揮させるのは、理論的にいってムリである。皮膚表面にキャリヤーオイルに稀釈した精油をマッサージしている間に、無駄に空気中にいかに多量の精油が蒸散してしまうかを考えてみればすぐわかる。

皮膚から体内に浸透する精油の速度は、残念ながらきわめて緩慢なのである。したがってその絶対量も少ない。

また、精油類は人体に悪質な微生物だけを殺し、人間に悪さをしない微生物には何もせず放置するなどというタワケタ主張をするものがいるが、これは全くのウソである。むろん精油によって、その種類によって、それが殺す微生物の種類と総量とに差が生じることは確かだが。

そう世の中は、また自然界というものは、人間にばかり都合よくできているものではない。
バイブルの記述をあまりマトモにうけとってはいけない。

2013年9月24日火曜日

「バレエ・リュス」とアロマテラピー

以上、いろいろな観点から、バレエ・リュスについてのべてきたが、これは、当時のほとんどのヨーロッパの芸術家たちが「芸術のめざすのは、人間の感覚を陶酔させることだ」と信じて、さまざまな作品をものしてきたこと、そして、その一つの象徴的なかたちが、絵画・文学、そしてむろんのこと、その結果、舞踊というものが、その時代思潮をあらゆる方面に拡大延長していった事実を史実に照らして確認したかったからである。

その作品にさまざまな形式で接する人を「陶酔させること」
--それが果たして芸術の真の存在理由であるかどうかは、まさに神のみぞ知るところだろうが、当時の人びとの多くは、ことに芸術家たちは固くそう信じた。

その象徴的なものが、「バレエ・リュス」だった。バレエ・リュスが提出した答えが、人類が古来、営々とつくりつづけてきた「芸術」ないし「芸術的」な作品のただ一つの存在理由に収斂するか否か私には疑問だが、19世紀末から20世紀初期にかけて、多くの芸術家が提出したこの答えにたいして、まだ私たちが明確な一定の反応なり態度なりを示せずにいるということは確かであろう。

さて、第一次大戦後、フランスの領土になったアルザスに移住した、マルグリット・モーリー、本名マルガレーテ・ケーニヒは、やはり外科医の補助をする看護師のしごとをここでつづけていた(アルザスはフランス領といっても、住民はドイツ語〔厳密にはそのアルザス方言だが〕を話していたので住みやすかったとも考えられる。この地方の住民がまるでピュアなフランス語を話していたかのように書いた、フランスの三文右翼作家ドーデの『最後の授業』は、ウソの固まりだ)。

また、よくマルグリット・モーリーは「生化学者」などといわれるが、少なくとも、今日biochemistry(生化学)というタームが意味するものは、彼女が「研究」していたとされるものとは大幅に異なることも知っておいて欲しい。

フランスで、ホメオパシー医のモーリーと知り合った彼女は、モーリーと再婚し、以後自分の名前もフランス風にMarguerite Maury (マルグリット・モーリー)と変え、それからは、ずっとこの名で通した。

ホメオパシー医の夫のモーリーは、中国やインドやチベットの宗教・哲学などにかなり詳しかったとみえ(正確だったかどうかは別問題だ)、マルグリットは夫からその方面の知識を教わった。

また、マルグリットは、はやくも、1835年にフランスで出版された"Les Grandes Possibilités par les Matières Odoriférantes " (芳香物質の大きな可能性)という本を入手し、これをよく読んだ。この本は、フランスのシャバーヌ博士が著したもので、同書は1937年にルネ=モーリス・ガットフォセの出した"Aromathérapie"とならんで、彼女の座右の書となった。また、マルグリットは、神経系に及ぼす精油類の力の研究を行い、これも彼女の「アロマテラピー」理論の基礎となった。
 
マルグリットも夫のモーリーも 、文学・美術(マルグリットの場合は自殺した父からの影響もあったものと思う)・音楽など、芸術一般にともども深い興味を寄せていた。この二人が、アンナ・パヴロワがウィーンで、ベルリンで、ミラノで、パリで時代を画するバレエを発表したことを、またディアギレフの「バレエ・リュス」のエポックメーキングな成果のことをさまざまに語り尽くしことは想像に難くない。

ここに、私はバレエと、総じて芸術とアロマテラピーとの幸福な結婚を見いだすのである。

 
そうしたことが、一体となって、マルグリットは人間の嗅覚・触覚などを、芸術と同様に陶酔させようという、ルネ=モーリス・ガットフォセの考え方とはかなり異なったアプローチで人を美しくし、かつ健やかにすることをめざした独自のアロマテラピーを構築した。精神=神経=心理=免疫といった人体の各機能の不可分の関係に、彼女は直観的に気づいていたのであろう。

まだ、当時の医学界は、そこまでの知識を持っていなかったからだ。

マルグリットは女性として、コスメトロジー(美容術・化粧品学)にも強い関心を寄せ、国際エステティック協会(CIDESCO)に関係し、その会長(現在はこう呼ばないそうだが)に2度も就任した。そして、CIDESCO賞をそのコスメトロジーへの貢献を賛えるということで、これまた2度も受賞した。このことについて、いささかお手盛りの感があると本に書いたら、まるで私がイヤミを言っているかのような非難をした人がいた。私は19世紀フランスの詩人、シュリー・プリュドム[Sully Prudhomme]のことを思い起こしたのだ。プリュドムなどという詩人のことを知っている人間は、日本には仏文学の専門家以外はほとんどいないだろう。彼は第1回のノーベル文学賞受賞者だ。この私も本来はフランス文学専門だから、プリュドムの原詩も、その文章もいくつか読んでいる。しかし、本当に心を動かされる彼の詩句にも文章にも一度もであったことがない。
 
しかし、ロシアの文豪レフ・トルストイといえば、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』、さらには『イワンの馬鹿』などで、文学に親しんだ人なら知らぬものはない。彼の作品は、国境を越えて多くの人の魂をゆり動かし、日本では、白樺派まで結成させた。トルストイはノーベル文学賞を決定する際にはその選考委員に任命されていた。当然のことながら、彼はその受賞者に推挙されたが、トルストイはぴしゃりと受賞を謝絶した。その立場上、当然であったろうが、さる方面からシュリー・プリュドムという、フランス国外ではほとんど知られていないフランスの詩人に、どうあってもこの栄えあるノーベル文学賞第一号を与えようとする政治的圧力があったらしい。ま、こんなことはどうでもよいが、私たちはトルストイの作品に触れるたび、いつも深い感動に包まれずにはいない。
 
マルグリット・モーリーのことで、私にイチャモンをつけた女性[だろう]は、たぶんシュリー・プリュドムの作品はおろか、その名も知るまい。第一、その名前すら正確に発音できまい。
マルグリット・モーリーが受賞したとき、彼女は会長の地位を退いていたが、マルグリットは依然として、CIDESCO内で隠然たる勢力をふるっていた。
したがってCIDESCOが最優秀エステティシエンヌに賞を授与するとなれば、彼女に与えるしかなかったのだ。このことを、マルグリットの弟子だったダニエル・ライマンに確かめたところ、ダニエルは苦笑まじりに肩をすくめ、「仕方なかったんですよ(Que voulez-vous?)何しろ、技術面でも理論面でも彼女に比肩できる女性はいなかったのですから(Elle était sans égale)」と言っていた。 

だから、マルグリットの受賞には「お手盛りの感がある」と私は言ったのである。そのくらいのことは調べてから、人に文句をつけるものですよ、お嬢さん、いやおばさん。

マルグリット・モーリーは、フランスやスイスなどヨーロッパ各地にクリニックを開き、アロマテラピーによる美容法をクライアントたちに施術した。そして、そのかたわら、自分の生徒たちにエネルギッシュに(しかし、何か秘密の宗教でも伝授するように)、自分のアロマテラピーを教えた。
ここに、藤田博士は黒魔術の臭いをお嗅ぎになるのだろう。
 
私が、ロンドンで知り合っていらい友人となっているマルグリットの愛弟子、ダニエル・ライマンが彼女の死後、実質的にそのあとを継ぐことになったが、20歳代半ばの彼女にはクリニックの運営は大変な重荷だったとのことだ。
 
マルグリットの弟子として、その後の英国のアロマラピーの教師になったのは、上述のダニエル・ライマン、ミシュリーヌ・アルシエ、シャーリー・プライスらがいる。とくに、1968年にマルグリットが脳卒中で死去したとき、もっとも近くで彼女を看取ったダニエル・ライマンは、「私はマルグリットの心のこども(マルグリットにはこどもがいなかった)であり、生徒でした。彼女は私の人生のメントール(賢明で信頼のおける助言者)でした」と。繰り返し言っている。

クライアントを感覚を通して陶酔させ、エクスタシーに導くことを主眼としたマルグリット・モーリーのアロマテラピーは、芸術的アロマテラピーというのは言いすぎかも知れない。しかし、私はマルグリットとその夫とが創り出したアロマテラピーは、ある意味で「バレエ・リュス」がメタモルフォーズして生まれ変わったものの一つだと私は信じている。

アールヌーヴォーの衝撃②

沖縄県那覇市・兵庫県明石市でのアロマテラピーの講義とその準備、今後の講演の打ち合わせなどに時間がかかってしまい、執筆が予想以上に遅延したことを深くお詫びいたします。

今回は、アールヌーヴォーを支える精神的な支柱を、バレエという、人間が生み出したもっとも美しい芸術としばしば称される、人間が身体を駆使して、その魂を、その精神を縦横に表現する芸術を、今日の姿に育てあげた功労者の一人、ロシア人、セルゲイ・パヴロヴィッチ・ディアギレフについて語りたい。

ディアギレフは、1872年、ノヴゴロドの近くのペルミの比較的裕福な地方貴族の家に生まれた。母は彼を生んだその3日後に亡くなった。父親の再婚に伴って、当時の首都サンクトペテルスブルクで幼少時代を送り、10歳のとき故郷ペルミに戻った。

継母は彼を実の子のように心から愛した。この継母は莫大な財産の持ち主だった。何不自由ない青少年時代を送ったディアギレフは、1910年に再度上京して、ペテルスブルク大学の法科に籍をおいた。

しかし、彼は法律の授業にはほとんど出席もせず、芸術家を志して作曲・声楽を学び、マリインスキー劇場などで開催される演奏会などに頻繁に通った。のちに創刊する、『芸術世界(ミール・イスクーストヴォ)』誌で、ともに活動するアレクサンドル・ブノア(ロシアではベノアと呼ぶ)、レオン・バクストといった芸術愛好家らとの面々と知り合いになり、芸術談義に花を咲かせた。

しかし、作曲の師であるリムスキー=コルサコフから、「君には作曲の才能が欠如しているよ」と引導をわたされ、声楽も声質が悪かったことから(ピアノ演奏の腕前は相当のものだったらしいが)、みずから芸術家になることをあきらめた。そして、大学卒業後、自分を深く愛してくれた継母を亡くした彼は、継母の莫大な財産を手に入れ、西欧各地を旅行した。

そして、方々で名画を購入し、その展覧会を開催し、1897年以降6回も皇帝一族をその会に招待した。

同年、ブノアやバクストらと『芸術世界』を創刊したディアギレフは、1904年に同誌を廃刊するまで、英国のビアズレー、フランスのモネら西欧の新しい美術やロシアのアヴァンギャルドの画家たちの作品を誌上で紹介しつづけた。ディアギレフらは、さらにこの雑誌で安藤広重や葛飾北斎にいたる幅広い世界の芸術をロシア人に知らせた。これは日本人も知っておくべきだろう。


こうした活動の総決算のようなかたちで、1905年にディアギレフらはサンクトペテルスブルクのダヴリーダ宮殿で、『ロシア歴史肖像画展』を開催し、貴族皇族のコネを利用して、帝室の芸術作品のコレクションおよび全国各地から集めたものを約3000点を展示した。

このとき室内装飾を担当したのが、レオン・バクストだった。このころのロシアは迫り来る革命、日露戦争という内憂外患に悩まされる、ひどい不安定な情勢のもとにあったが、この展覧会には、ロシア帝国の最後の皇帝となってしまった、ニコライ2世をはじめ、多くの人びとがつめかけ、世界の芸術の新風を理解しようとした。

こうした空気がロシア革命直前から1930年代まで続行された「ロシア アヴァンギャルド」芸術を醸成(じょうせい)したことは確かだろうと思われる。

混乱する政治状況のもと、ディアギレフは西欧にロシア文化を大々的に紹介しようと考えた。

1906年に、彼はパリのプチ・パレでロシア人画家たちの大規模な展覧会を開き、これを成功させた。これによって、ディアギレフは、フランスの文化界・社交界と交流するきっかけをつくった。

ついで、ディアギレフは、ロシア音楽をパリで紹介することを計画し、1907年5月に5日間にわたる演奏会では、作曲者ラフマニノフ自身のピアノ演奏(彼はピアノの名演奏家でもあった)による『ピアノ協奏曲第二番』が披露され、さらにリムスキー=コルサコフ、スクリャービン、グラズノフがそれぞれ自作を演奏し、さらにチャイコフスキーの『交響曲第二番』その他のロシア音楽の粋というべき名曲の数々がパリジヤンに紹介され、これまた大成功を収めた。また、彼は世界のオペラ史上に不朽の名声を残したフョードル・シャリアピンによるオペラ『イーゴリ公』の抜粋版を上演させ、シャリアピンを主役にしたモデスト・ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』全幕上演を、パリのオペラ座で実現させた。

パリの聴衆は、バス歌手シャリアピンの比類のない柔らかいバスの美声の歌唱力と、その演技力にひたすら驚嘆した(ちなみに、シャリアピンはラフマニノフの無二の親友だった)。

つぎに、ディアギレフはロシアのバレエをシャトレ劇場で「バレエ・リュス(ロシアバレエの意)」として発表した。ここでは『アルミードの館』、オペラ『イーゴリ公』の第二幕から独立させた『ポロヴェツ人の踊り』、『レ・シルフィード』、『クレオパトラ』などがパリの人びとに初めて紹介され、アンナ・パヴロワ、ヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサーヴィナなど、ロシアでもっとも優れた若手バレエダンサーたちの目を見張る超絶的な舞踏テクニック、演劇的表現力、さらには前述の『ポロヴェツ人の踊り』での、これまでフランス人も英国人もまったく知らなかった男性ダンサーたちの勇壮な迫力に満ちた踊りは、19世紀後半からとくにパリで凋落(ちょうらく)し、腐敗しきっていた「バレエ」(フランスなどのバレリーナは売春婦同然の存在だった)というものしか半世紀近くも知らなかったパリの観客に一大衝撃を与えた。

この男性がバレエで踊るということについて、英国の有名なバレリーナ、マーゴ・フォンテーンが「英国など西欧の男性は、踊ることを恥ずかしがっていたが、ロシアや中東やアジアの男性は進んで踊る。踊りを好む。これが、西欧がバレエにおいて、とくに男性ダンサーに活躍の場を与えず、バレエでロシアに遅れを取った原因だ」という意味のことを語っていた事実が想起される。そういえば、日本人男性もさまざまに祭りの踊りをやるし、日本舞踊の家元はほとんどが男性だ。
マーゴ・フォンテーンは幼少時に父親の赴任地、上海でロシア人男性バレエ教師からバレエの手ほどきを受けていた。

ディアギレフのパリでのバレエ公演は、芸術的には大成功を収め、バレエ・リュスの名声は英国に伝わり、ロイヤルバレエ団を結成させ、米国のニューヨークシティーバレエ団をつくらせるという結果を生んだが、財政的には、ディアギレフはほとんど破産状態だった。(当時はテープレコーダーのようなものなどなく、リハーサル時にもオーケストラ団員に報酬をいつも支払わなければならなかった)。にもかかわらず、ディアギレフは将来の公演に備えて、ラヴェルに『ダフニスとクロエ』の、またディアギレフが発見した新進作曲家ストラヴィンスキーに『火の鳥』の作曲をそれぞれ依頼し、ロンドンに行って、公演会場探しをやったりしている。

彼をそこまで駆り立てたものは、いったい何なのか。金をもうけようなどという気でなかったことは、火を見るよりも明らかだ。

話はちょっとそれるが、バレエ・リュスに参加して、フォーキンが、10分という短時間で振り付けたサン=サーンスの『動物の謝肉祭』の『白鳥』に題材をとった『瀕死の白鳥』を踊って、世界的な名声を得た、20世紀初頭の最高のバレリーナ、アンナ・パヴロワ。彼女も第二の「バレエ・リュス」である。

アンナ・パヴロワは、もとより航空機もなく、鉄道網もおよそ整っていなかった当時、ヨーロッパ各国ばかりでなく、米国、英国、中南米諸国、オーストラリア、インド、東南アジア、日本にまでも足を延ばし、ロシアのバレエを紹介して普及させた。

彼女は実に地球を13周ぶん以上もの距離を旅し、地の果てまで回った。今日、私たちがチャイコフスキーの『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』アダンの『ジゼル』などを観賞できるのも、アンナ・パヴロワとディアギレフとの両人のお陰である。

ただ、この二人の天才は、ソリが合わず、とくにパヴロワはストラヴィンスキーの音楽が大嫌いで、ディアギレフとともに『瀕死の白鳥』などで全ヨーロッパに名を轟かせたのは、ごく短期間であった。

彼女は日本では、1922年横浜や東京などでバレエを披露し、とくにパヴロワの代名詞にまでなった演目、『瀕死の白鳥』は、バレエに初めて接した日本人にも感銘を与え、芥川龍之介は「今日、僕は非常に美しいものを見た」と記しており、また歌舞伎界の六代目尾上菊五郎もパヴロワと芸談に花を咲かせ、パブロワの踊りに感銘を受けた菊五郎は、歌舞伎舞踊の『鷺娘(さぎむすめ)』に、『瀕死の白鳥』の振りをとり入れた。

彼女は50歳代初めに、オランダ公演へ赴く途中で病気に倒れ、手術を拒否して他界した。「白鳥の衣装をもってきて・・・」というのが、熱にうなされたパヴロワの最後のことばだった。

彼女が生きていれば公演するはずだった、オランダの劇場では、オーケストラがサン=サーンスの白鳥の曲を演奏し、投光器がパヴロワが踊ったであろう位置にライトをあて、観客はシーンとしてそれを見守り、曲が終わると万雷の拍手を送ったという。

以後、20年もの間、『瀕死の白鳥』を踊るバレリーナは出なかった。不世出のバレリーナといわれたアンナ・パヴロワと技倆をあからさまに比較されるのを恐れたこともあろうし、フォーキンとパヴロワとが創り出した一種の神聖な空気を犯す涜神(とくしん)的な行為と考えたこともあるだろう。

やがて、ソ連の名バレリーナ、マヤ・プリセツカヤがフォーキンの原振付けを少し変えて、『瀕死の白鳥』を踊り、以後、何人もの有名なバレリーナが、あるいはフォーキンの原振付のまま、あるいはそれをすこし変えて踊り続けている。
ロシアの男性ダンサーのファルフ・ルジマートフも、男性用タイツ姿でこれを見事に踊ってみせている。

話をディアギレフに戻すと、1910年、ディアギレフはバレエ団を再編成し、パリのオペラ座でストラヴィンスキー作曲の新作の『火の鳥』のほか、バレエ用に組曲を改編したりムスキー=コルサコフの『シェエラザード』を上演し、またまた大成功を収めた。

この公演では、ブノワ、バクストらの舞台美術も、フランスの芸術家たちに非常な刺激を与えた。とくに『シェエラザード』は、その踊りもさることながら、アールヌーヴォーの香りを漂わせるその舞台美術、衣装、大道具、小道具は、同時にそのころのパリの人士たちの夢想する「豪奢(ごうしゃ)で、華麗で、神秘的で、エロティックで、残酷なオリエントの世界」に、ひとときなりとも、思うさま浸りたいという思いを十二分に堪能させるものだった。ニジンスキーやカルサーヴィナらの演技がエロティックすぎる、アブなすぎるという非難の声もあがり、退席する観客もいたほどだが、それがまたさらに人気を呼んだりした。

バレエ・リュスのこのエキゾチックな魅力は、フランスの「野獣派(フォーヴィスト)」と呼ばれる画家たち(とくに、マチス、ヴラマンク、ブラックなど)や、またある意味で従来の芸術的な理念、アールヌーヴォーのアンチテーゼ的な観念、アールデコ様式を理想とする人びと(イラストレーターのジョルジュ・バルビエなど)にもまた反面教師として影響を及ぼした。

ロシア芸術は、芸術理念の変容をつぎつぎに生み出していく、きわめて豊穣(ほうじょう)な美田だったのだともいえよう。

こうして、2度のバレエ公演を成功させたディアギレフは、1911年に正式に常設のバレエカンパニー「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」を結成した。ディアギレフは、天才を発見する天才だった。彼は多くのフランス・ロシアなどの優秀な若手の芸術家を動員し、「総合芸術としてのバレエ」という、前代未聞の芸術スタイルを確立した。
三島由紀夫が「軽金属製のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と評したジャン・コクトーも、 バレエ・リュスの脚本作りに参加し、『失われた時を求めて』のプルーストもこのバレエを観賞して「こんなに美しいものを見たのは、生まれて初めてだ!」と叫んだことも付言しておこう。

このバレエ・リュスでは、新進気鋭のミハイル・フォーキンの振り付け作品が大半だったが、天才的な技巧と演技力をもつダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキー(彼の超絶的テクニックの一つを具体的にお話しよう。ニジンスキーは、ピョンと一度飛び上がって、ふたたび着地するまでに、両足の裏を10回、打ち合わせることができた。みなさんも、一度お試しいただきたい)は、新作バレエの振り付けも行った。そのほかの有名な振付師は、レオニード・マシーン、ブロニスラヴァ・ニジンスカ(ヴァーツラフ・ニジンスキーの妹)、ジョージ・バランシンらがあげられ、いずれもユニークな振り付けを競うように行った。

ストラヴィンスキーは、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』、『プルチネルラ』などを作曲し、ラヴェルは『ダフニスとクロエ』、ドビュッシーは『遊戯』、プロコフィエクは『道化師』、『鋼鉄の歩み』 、サティーは『バラード』、レスピーギは『風変わりな店』、プーランクは『牝鹿』など、今日なお私たちの耳になじみ深いたくさんの新進作曲家たちがみな、ディアギレフの求めに応じてバレエ音楽を真剣に創り出した。それまで多くの作曲家は、バレエ音楽というものを軽視、あるいは蔑視(べっし)していた。チャイコフスキーは、例外的な存在だった。それかあらぬかフランス人の多くはチャイコフスキーを平凡な作曲家としかみなかった。

バレエ・リュスの舞台芸術を手がけたものには、ロシア人ばかりでなく、ピカソ、マチス、ローランサン、ミロ、ルオー、ユトリロなどの有名な画家たちがいる。彼らは、そこからまた逆に自分たちの霊感を得たに相違ない。彼らの画風は、このあたりを境にそれぞれ大きく変化していった。

 パリ社交界のパトロンたちや、デザイナーのココ・シャネルらは、バレエ・リュスの活動を金銭的に援助した。公演が成功しても、ディアギレフの手にはほとんど金銭は残らなかった。どう工夫しても、支出のほうが収入を上回ってしまうからだった。

ディアギレフは、新作バレエだけでなく、チャイコフスキーの『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』、アダンの『ジゼル』も上演した。

ディアギレフは、ロシアオペラの上演も何度となく行った。リムスキー=コルサコフの『プスコフの娘』、『五月の夜』、『金鶏』、ストラヴィンスキーの『マヴラ』などがその演目である。

ディアギレフは、1929年にドイツやスイスなどを旅したが、同年の8月19日に持病の糖尿病が悪化して、ヴェネツィアのホテルで死去した。そこに駆けつけたのが、ココ・シャネルとそのポーランド人の女友達、ミシア・セールだった。ディアギレフは、このときほとんど無一文だった。金目のものは、せいぜいカフスボタンぐらいだった。

ココ・シャネルは、たまっていたホテル代を支払い、ミシアと二人だけでディアギレフの野辺送りをした。ディアギレフの遺骸は、ヴェネツィア近辺のサン・ミケーレ島に埋葬された。世界大恐慌のおこる二ヶ月前のことであった。

バレエ・リュスは、ディアギレフの他界によって解散したが、その団員からはバランシンらのように、ロシアのクラッシックバレエの伝統と真髄を英米に移植したものや、バレエ教師となって多くのダンサーを育てたセルジュ・リファールのように、パリ・オペラ座のバレエを復活させるのに貢献したものがつぎつぎと出た。2012年に亡くなったモーリス・ベジャールもこの系統の人物である。極論すれば、ディアギレフとはやばやと決別したアンナ・パヴロワなどは別格として、直接間接にディアギレフのバレエ・リュスの影響を受けなかったバレエダンサーは少ないといってよいだろう。

ディアギレフは、実母が自分を生んだことで死んだり、継母に深く愛されたりしたことが原因しているのかどうかわからないが、(英ソ合作の映画『アンナ・パブロワ』には、そんなことをにおわせるセリフが出てくるが)、ともかく、一生を通じて同性愛者で、女性を愛した経験は皆無だった。したがって、彼の子孫はいない。

彼には、性愛の対象の男性を一流の芸術に触れさせて教育する癖があった。その相手としてもっとも有名なのが天才的バレエダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーである。ニジンスキーのほうは、ディアギレフのような「真正同性愛者」ではなく、ディアギレフとの関係に嫌気がさして、勝手に女性と結婚して、ディアギレフの逆鱗に触れて絶縁されたが、その後もディアギレフはマシーン、リファール、晩年には秘書のボリス・コフノともそうした関係をもった。

そんな関係をディアギレフともったことが原因かどうかわからないが、この天才的ダンサー、ニジンスキーは8年間活躍しただけで引退してしまい、統合失調症(精神分裂病、スキゾフレニア)になり、その後の人生は精神病院をたらい回しにされ、インスリンショック療法を受けつづける痛ましいものだった。そんな彼を妻ロモラは献身的に看病したが、症状は好転せず、1950年、ロンドンで生涯を閉じた。ロモラは『神との結婚』という回想録を書いている。