2014年7月1日火曜日

インドシナ戦争時のジャン・バルネ博士

Dr Jean Valnet at Vinh-Yen.ベトナムのトンキン軍管区第1前進外科処置部隊主任として負傷兵の処置にあたる軍医隊長、ジャン・バルネ大尉(ヴィン=イェンの戦闘において)
photo : Ch.K.女史提供 
 
 
 
インドシナ戦争時のジャン・バルネ博士
 高山 林太郎
 
 1946年から54年にかけて、新たに建国したベトナム民主共和国が、インドシナの支配権の回復をもくろむフランスに対して行った独立戦争をインドシナ戦争という。
 米国からの膨大な援助資金と武器との支援をうけて、制空権を握ったにもかかわらず、54年5月ディエンビエンフーでの決戦で、フランス軍は大敗した。
 思えば、ナポレオンがロシアで大敗して以降のフランス軍は、ヘナヘナというイメージしかない。
 
 このフランス軍のほとんどは、いわゆる「外人部隊」(旧ナチスドイツ兵、アルジェリア兵、南ベトナムで徴兵した兵士など)からなっていた。旧ナチスドイツ兵は第二次大戦中、東部戦線でソ連軍に徹底的に粉砕され、祖国ドイツは米英空軍の猛爆で廃墟同然になり、働き口もなかったので、やむなく昨日まで自分たちが支配していたフランスの、その外人部隊に自分の身体と命とを売ったのだ。
 つい先日まで自分たちにペコペコしていたフランス人にアゴでこき使われるドイツ人たちは、なんの恨みもないベトナム人を相手に、地球の裏側で、ド・カストリなる焼酎みたいな名前のフランス軍司令官の命令下で戦わされた。戦意などわくわけがない。ドイツ人たちはヤケになってナチスの軍歌を高唱していた。体格も貧弱なベトナム兵の闘志には、最新式の米国製の航空機も大砲も歯が立たなかった。
 このベトナム兵たちの戦いを見たジャン・バルネが、自分自身パルチザン兵として活躍したおのれのかつての姿をそこに重ね合わせなかったはずはない。とはいえ、フランス軍の軍医大尉として、ジャン・バルネは負傷者たちの手当てに懸命にあたった。
 大国フランスは、弱小なベトナム民主共和国に敗北した。ド・カストリ司令官は、ベトナム軍の捕虜の身となった。帝国主義・植民地主義の時代は終わったのである(それにつづくベトナム戦での米国の悪あがきやアルジェリアの対仏独立戦争などはあったが)。
 
 このとき、ジャン・バルネは、オーストラリア・ニュージーランドから送られてきたティートリー油などの精油を実験的に「初めて」使用し、アロマテラピーを実践した。第二次大戦中から彼がアロマテラピーを行っていたように言う人間もいるが、みんな嘘八百だ。
 ジャン・バルネの心中を察するに、これ以降、ほとほと彼は戦争が嫌になったのだろう。政府はレジオン・ドヌール勲章を贈って彼をひきとめようとしたが、ジャン・バルネは軍籍を離れ、民間の病院医となった。彼は決してベトナム人を殺さなかった。第二次大戦中もパルチザンの衛生兵として、祖国のために尽力した。しかし、みずからの手でドイツ兵を殺傷したわけではない。このときは、友軍のため、同志のためにペニシリンを配布し、ドイツに降伏して、その傀儡になった時のフランスのヴィシー政権にさからって、傷ついた戦友たちの命を救ったのである。
 ハーバリストのモーリス・メッセゲは、南仏の一介の民間人にすぎなかったが、ナチスドイツの収容所に送られそうになったときに脱走し、パルチザンの一員となった。彼は自分の手に余るようなサイズの拳銃を与えられ、ドイツ兵を狙撃しようとしたが、ついにその引き金を引けなかったと告白している。
 
 医学により、民間の医術により、人を健康にしようとし、人間の命を救おうと心の底から思うものには、どんな理由があろうとも、人の命を奪うことなどできないのだ。
 この二人のことを考える私は、そう信じて疑わない。アロマテラピーを研究し、実践しているみなさんも、きっと同じ考えをお持ちのことと思う。 
 
なお、民間医となったジャン・バルネ博士は、現代薬学の花形とされた抗生物質剤の使用に疑問を持つようになり「よほど差し迫った状況でないかぎり、抗生物質剤を使わないように」と主張した。
博士は1995年に死去するまで、このことを強く訴え続けた。「植物=芳香療法」は博士にとって抗生物質療法に対する代案の一つだったのである。
母を抗生物質クロラムフェニコールの副作用で失った私の心に、博士のこの言葉は重く響いた。

そして、博士はアロマテラピーを復権させ、これを広めようと本を書いたり、民間の病院で密かに実践したりしたことも付け加えておきたい。
精神病院を含む各種の病院でこれを実践しながら、フランス伝統の植物療法を質的にブレイクスルーさせるものとして、つまりアトミックな植物療法としてのアロマテラピーの体系を構築していったのである。
博士が、雑誌記者のインタビューに答えて、ルネ=モーリス・ガットフォセのいう「アロマテラピー」からはその名前を除いては一切影響を受けていない、と言っているのはそのことを意味しているのだろう。
これが、バルネ博士をアロマテラピーの中興の祖と私が呼ぶゆえんである。

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1 件のコメント:

  1. ジャン・バルネ博士の名が、日本のアロマ資格商法のテキストに、軽々しく書かれていたり、アロマの民間資格コースに客寄せとして利用されていたりする日本の現状・・・恥ずかしいですね。まるで中国のコピー商品ビジネスのようです。

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